茂登山長市郎さんと言っても知らない人が多いかもしれないけど、という話
昨日、残念な記事をみた。
東京以外の人にはわかりにくいし、多分若い人は知らないと思うけど、銀座のサンモトヤマといえば、輸入品を扱ったブティックとしてある程度のお金持ちの間では知らない人がいない店だった。
“古今東西の美の融合”をテーマに、ファッションからインテリアまで独自の審美眼とセンスで商品を取り揃え、豊かなライフスタイルを提案しているセレクトショップです。
その理念は、美しいものに恋するような感覚。
今でこそ、欧米のブランド品は直営のショップで売っているが、長年、欧米のブランドを国内で紹介し販売するには、日本での独占販売権をブランドと契約し販売代理店となる必要があった。そんな1960年代にグッチやエルメスを日本で初めて売ったのは、商社や百貨店のような資本力のある会社ではなく、一人の男が支えるサンモトヤマだった。
銀座は江戸時代から続く老舗の集まりだったのが、国際的なブランドショップが並ぶ街になったのも、サンモトヤマが銀座にあったからだと言っていい。
銀座のタウン誌「銀座百店」を発行する百店会の理事長が1962年に30代の若手店主を理事に抜擢した時に、サンモトヤマの茂登山長市郎を選んだ理由として言ったという。
「銀座はいずれ世界の銀座にならなければならない。外国の商品を扱い、外国のことを分かっているのは君だけだから」と。
つまり、東京オリンピック前の銀座は、まだ今のようではなかった。そんな中で、明治生まれの銀座の大旦那たちも、戦後に急成長したサンモトヤマを認めざるを得ない状況だったということだ。
そんな創業者・茂登山長市郎の数奇な人生についてウェブサイト上でまとめている。
実は私は、この茂登山長市郎さんをインタビューしたことがある。
2000年代前半に東京国際フォーラムの広報誌の仕事だった。
この本が発売された直後で、サンモトヤマが東京国際フォーラムを使ってフェアを開催していたので、それの紹介に合わせた記事だった。
新書なのに中古しかないみたいなので、茂登山長市郎さんについて知るには、こっちの方が良いかもしれない。
とにかく、海外ファッションブランドを日本で販売したことにおいては右に出る人がいないのではないだろうか。
ご本人もダンディで、私がインタビューした時にはもう80歳を超えていたと思うけど、フェアの現場で立ったまま長い時間お客様の対応をしていたタフな人だった。
バブルの頃くらいから、サンモトヤマの経営は苦しくなっていた。日本人が直接海外のブランドの本店で買い漁り問題となったように、国内で買う人が減っていた。その後、ブランド離れの時代もあり、さらに2000年代には、それまで独占販売権を持っていたブランドが次々と離れ、自前の直営店を銀座に出店するようになっていた。
もうサンモトヤマの役割は終わったのではないか。そう思われても仕方がない時代に、インタビューした。
茂登山長市郎さんは、そんな不躾な質問にも、全く違うと力強く語った。ブランドが行き渡った今だからこそ、どの店で買うかで違ってくる。サンモトヤマで買ってよかったとお客様に思っていただける店であり続けることが大事なのだ、と。さらに、ヨーロッパには、まだ日本で知られていない素晴らしいブランドがあり、そうした未知のブランドを日本に紹介できるのは自分だけだという自負を語った。
そのパワーにこの人は死なないのではないかと思っていたが、2017年12月に96歳で亡くなっていた。
並木通りにあったサンモトヤマの本店は東日本大地震の影響でビルの建て替えが必要になって、銀座風月堂ビルに移転した。この時も並木通りから離れたくないという思いがあったという。2017年に本店があったビルの建て替えが終了し、サンモトヤマは戻った。これを見届けるように長市郎さんは亡くなった。朝日ビルにサンモトヤマの本店が戻った時に古くからの銀座の人たちは、これで並木通りが元に戻ったと言ったという。
そんなサンモトヤマだが、息子が社長になって、色々と問題があったようで、東京国際フォーラムで年4回から5回開催していたフェアが、この秋中止になっていた。
その理由は冒頭の記事にある通り。
これを見ると、朝日ビルに戻ったことが大きな原因だったのかもしれないが、あの場所にこだわったのは多分長市郎さんだろう。でも、それが息子に負担を大きくしたのかもしれない。しかし、長市郎さんという稀代の経営者の後を継ぐのは誰であろうと難しかったと思う。小売店が苦労していて、さらにネットで海外から直接買うこともできる時代に、インポートセレクトショップのあり方はさらに難しい。
やはり長市郎さんが亡くなって、サンモトヤマも死んだ。そう思うしかない。
戦後日本のある時代の終わり。令和まで保ったのは一人の傑物の力だった。