完璧な健常者などいないと言うところから出発しないと誰も救われない
発達障害という言葉が気に入らない、という話は過去にも書いたかもしれません。
発達障害をめぐる話については、この茂木さんの意見に大賛成なのです。
茂木さん自身が、多分、診断されたらば「発達障害」と言われるだろうことは分かりますし、東大理学部にはそういう人が多そうです。
確かに自分でいうのもなんですが、勉強は抜群にできました。授業は全く聞いていませんでしたけど(笑)。だから多少変わり者でも、「できる奴」でやってこられたのかも。でも僕自身理学部卒業で、理系の大学で教えたりしていましたが、似たようなタイプは多かったです。好きな女の子の前で自分の研究を滔々と語って止まらない奴とか(笑)。
でも、東大理学部の学生に向かって、発達障害だから別のクラスで授業を受けろとは言いませんよね。それは、学校における成否が学習結果という判断基準でできているからです。勉強さえできれば人格が破綻していても学校という閉鎖空間では許されるという、身もふたもない話です。
一方で、彼らの中には「生きづらい」と感じている人もいることでしょう。でも、その生きづらさは、周りと同じではないということに起因するんじゃないでしょうか。モテない、とかね。
結局、社会活動で問題が起きることを本人が自覚できるかどうか、というところに「障害」という言葉の発生は関わっているのだと思います。そして、それは、ムラがある。
発達障害とは、幼少期から現れる発達のアンバランスさによって、脳内の情報処理や制御に偏りが生じ、日常生活に困難をきたしている状態のことです。特定のことには優れた能力を発揮する一方で、ある分野は極端に苦手といった特徴がみられます。こうした得意なことと苦手なこととの差、いわば凸凹は誰にでもあるものですが、発達障害がある人は、その差が非常に大きく、そのために生活に支障が出やすいのです。
生活に支障が出るレベルになるか、その手前で済んでいるかは、周囲との関係で変わってきます。アスペルガーも自閉症もスペクトラム、という言い方になって、何か光線が出ているのかと思えば、そうではなく、境界を持ちながら連続していることを指すそうです。パキッと決まっているわけではないということですね。
自閉スペクトラム症は、「コミュニケーション(対人関係)の障害」と「興味や行動への強いこだわり」という2つの特徴を併せ持っています。どちらかだけという子どもが多くいますが、どちらか一つだけでは、自閉スペクトラム症とは診断されません。
それは、他の「障害」と呼ばれるもの全てに共通しているのではないかと思うんです。身体的な障害で社会活動に影響が出ても、乙武さんのように補助システムを構築できれば、人間的な問題とは別に(笑)、色々な活動はできるわけです。もちろん、今の彼の状況を作るには、彼の障害に関わる以外の能力が秀でてたからです。
重要なのは補助システムを作るのは誰かということです。
最近よく使われる「自己責任」なのかということですね。
ある側面でバランスを欠いた状態と言うのは、程度の差こそあれ、どの人にもあることで、そうした完璧ではない状態が、人間存在というものではないかと、プラトンも言っています(かなり端折りましたが)。
こうした完全体への憧れが人間にはつきもので、完全ではないことへの不満を「障害」という言葉で示しているのではないでしょうか。
問題なのは「健常者」という完全体があると思うことであって、あらゆる人間は、あらゆる方向で健常ではないことを認めて、助け合うことで社会を構成していくしかないんだと思うんです。
障害への補助システムを作って、生き延びられる人の数を増やしてきたのが人間社会の歴史なのではないかと。
不寛容な社会が、障害者に適応を迫るのは、実に不愉快です。
適応すべきは社会の方であって、障害者ではない。
障害者に適応した社会づくりを考えるにあたっては、健常者という幻想から離れ、自分がどういう障害者なのかを受け入れていくところから始めるのがいいんじゃないかなと思います。
確かに世の中の「これは駄目だ」は時代の移り変わりでかなり変わるし、常識も常に動いているのでしょう。逆に昔は許されたけどいまは駄目だ、以前は禁忌だったけど現在は問題ないということは多数あります。いまの世はコンプライアンスであり、かなり息苦しく感じるような事例も多くなりました。
なんだか社会が不明瞭だった障害を明らかにして追求するようになり、それで理由がわかって救われた人もいる一方で、理由がわかったことでどんどん不寛容になり、障害があるから仕方がないのか、障害がある人は度し難いなのか、障害との付き合い方なのか、障害者との付き合い方なのか、そんな本がたくさん売れる世の中です。
でもプラトンが『饗宴』の中で書いているように極端なところに何かがあるのではないのです。
エロースは美しくも善くもなく、また醜くも悪くもない中間的なもの。
中庸という話になるとまた別の挿話が必要ですが、プラトンは、ソクラテスが聞いた話として、完璧な肉体に完璧な精神が宿るのではなく、そうすべきであるということも書いています。
まず最初に一つの美しい肉体を愛し、その中に美しい思想を産みつけなくてはならない。
しかし次には、一つの肉体の美は他の肉体の美と姉妹関係にあり、あらゆる肉体の美が同一不二であることを悟り、ある一人に対する熱烈な情熱は見下すべき取るに足らないものとして冷ますようにしなくてはならない。
あらゆる肉体の美は同一不二だとすると、そこに上下はありません。
完全体への夢を語るのではなく、あらゆる肉体の美を考えるべきという言葉が、ギリシャ時代からあるとすれば、人間はあまり進歩してないのかもしれません。
そこにある物をどう有効に活用するか、それが人間の工夫ではないのでしょうか。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。