『ILLUME』とはなんだったのか:第5回:創刊号に至るまで
前回は、ILLUMEの特徴であった編集顧問会議に焦点を合わせてご説明しました。
ILLUMEがバブルの真っ最中1989年から、社会の急変の中で約20年続いたのは、この編集顧問会議の位置付けがあったことは間違い無いと思われます。
編集顧問会議で一蹴される創刊企画
ILLUMEの企画が持ち上がったのが1988年、創刊は1989年4月だったことはすでにご説明したかと思います。
つまりバブルの真っ最中です。
今となっては、その刊行時期だからこその予算と内容に目がくらむ思いがしますが、当時は、もっと予算をかけた豪華な企業広報誌はいくつもあり、それらの多くは芸術的な文化振興との連携や、自社の歴史や事業の紹介をビジュアルに力を入れて行うなどの特徴がありました。
その中でILLUMEは、科学技術に焦点を当て、しかも年2回刊行というサイクルで、配布対象も主に東電配電エリア内の公立中学高校の理科教師という地味なものでした。
実は、こうした編集方針は、編集顧問会議で実際に討議され作られていきました。
A氏は創刊から4号くらいまでの編集企画案を提出していました。しかし、その企画案は、1988年の11月に開催された第1回編集顧問会議で一蹴されてしまいます。
4本柱で各50枚
席上、山崎正和先生から「企画原案は月刊誌の構成であり、年2回刊行のサイクルで出そうと思うならば誌面がもたない。半年かけて作るのだから半年かけて読んでもらうような内容でなければ」とピシャリと、企画原案を否定され、A氏が青ざめる場面がありました。
では、どういう内容にすべきですかという問いに対して、山崎先生が答えたのが「人に緊張させて本気で書かせるには400字詰50枚程度は必要。そのためには、細かく紙面を割るのではなく、サイエンスシリーズ、インタビュー、イクスクルーシブアーティクル、フロンティアレポートの4本柱を中心にして行くべき」という提案でした。
山崎先生は、サントリー文化財団の理事を長年つとめ「季刊アステイオン」の編集に関わっておられたため、広報誌のあり方について造詣が深く、また執筆する側としてのご自分の体験から、これらの指導をいただいたのでした。
のちに山崎先生に伺った話では、400字詰で50枚=2万字という量を提示された理由として「10枚やそこらならば、鼻歌混じりでもかけるが、50枚となるとそうは行かない、構成も考えなければいけないし、資料も必要になる。文章というものはそういうものです」ということと、「ある程度長くて、書いた方の思想が感じられるものでなければ、読んでもつまらない。こういう本は、書く人を育てる必要もあるし、書くタネを与えられるものである必要もあるんだよ。それもまた社会への貢献だからね」ともおっしゃっていました。
これで、多くの記事をピックアップする時代を追った情報誌ではなく、長く読まれるきちんとした論文を掲載する冊子だという編集方針ができたわけです。
装丁は自立するものを
また、磯崎新先生からは、「今やDMであふれる時代。そのために読者が好感を持って選択し、残したいと思ってもらえるようなものにするためには、完結でないように即したデザイン、当然だが本棚などに入れてヨレて倒れてしまわない“本”であるべき。そのためには紙質が基本となる。また、“ポストモダン”の名の下に堕してしまった今日の建築は創造的でありようもないので、科学ジャーナルの対象にはならない」という指摘がありました。
年2回刊だからこそ、本棚に残したいと思うもの、並べて保存しておきたいと思うものであること、次号を待ち遠しいと思うような内容であることが求められるという指摘であり、建築家だからこその形状及びデザインへの要望でした。
この磯崎先生の指摘を受けて、本の装丁が規定されます。ヨレ無いという言葉から、広報誌によくある中綴じではなく、背表紙のある本ということになるでしょうし、背表紙のデザインにも工夫が求められるわけです。
デザインという言葉は、もともと“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareに起源を持ちます。そこにあるのは、図案や意匠にとどまらない「理念を形にする行為」であり、磯崎先生は、そうした広い概念でのデザインのあり様を本誌の姿にも求めたのだと編集部では理解しました。
また、ILLUMEという名称が、250案から20案に絞られた後、編集顧問会議で決定されたことは、先に第1回で述べたとおりです。
そして、この編集顧問会議でいただいたご意見を受けて、創刊号の構成案は持ち帰られ、再度編集部で検討することになります。
その際にも、小林先生と山崎先生には随時、ご相談をし、お手を煩わせていたものです。
創刊号の目玉:江崎玲於奈を口説く
創刊号の企画として、当初から挙げられ、その企画を知った他社から「A氏の詐欺師説」を囁かせたのが、「江崎玲於奈インタビュー」でした。
存命のノーベル賞受賞者であり、当時、IBMワトソン研究所に在籍していた江崎玲於奈先生は、日本の科学者として最も有名でありながらも日本社会から縁遠い存在でした。また、IBMには「無限大」という科学広報誌があり、TEPCOの広報誌に出るのはIBM広報が許さないだろうという声もありました。
ここでも、A氏は編集顧問の力を借りることになります。
江崎玲於奈先生にアプローチする際に、その恩師にあたる佐々木互先生(東京大学名誉教授)にご紹介の労をとっていただくのですが、この佐々木先生へのお願いは小林俊一先生の手を煩わせていたのでした。
その甲斐あって、11月17日、日本アイ・ビー・エム本社で30分の面談が許されました。
A氏は、江崎先生に「インタビューテーマ:創造性」の要点を整理して希望を述べました。その際、A氏には切り札がありました。
1973年11月23日付の「日経ビジネス」の記事を持っていったのです。江崎先生のノーベル賞受賞が発表されたのは、その前日11月22日のことでした。
その内容は、創造性を度外視した日本企業の人事管理とR&Dに対する表層的なアプローチを批判し、江崎氏のノーベル賞受賞の経営的意味を展開したものでした。当時、現代文化研究所の主任研究員としてA氏は日経ビジネスからコラムの執筆を頼まれていました。書くネタに悩んでいたA氏が、江崎先生のノーベル賞受賞の報を聞き、一晩で書きあげたのが、この記事でした。
これを見せながら「思いつきでお願いするのではありません。10年以上前から機会を窺っていたのです」と話すと、江崎先生は「佐々木さんのご紹介でもあるし、お会いするとしてもインタビューは断るつもりでした。しかし、こんなに前から惚れられていたんでは断れんなあ」とおっしゃり、「ついては12月10日にニューヨークの研究所まで来てくれるのならば」という幸運な結果を得たのでした。
撮影は細江英公、執筆は片山修という布陣
こうしてご本人を口説くことに成功したA氏は、さらに江崎先生のインタビューを他にないものにするために、スタッフィングに力を入れます。
インタビューをする人物(インタビュワー)には、企業本で有名で、トヨタに関する本で顔馴染みだった片山修氏に依頼。
インタビュー後、日本IBMに関する本も出版されました。
写真撮影には、日本を代表する写真家である細江英公氏に依頼します。
細江英公氏といえば、三島由紀夫氏の写真集『薔薇刑』や舞踏家・土方巽と作り上げた『鎌鼬』など前衛的な写真で知られる日本を代表する写真家であり、商業的な写真を撮るような方ではありませんでした。
A氏が本誌への参画を依頼したこの頃は、東京工芸大学の前身・東京写真大学の教授として教鞭を取り、日本写真家協会の副会長として写真芸術の発展に寄与する仕事に勤しんでおられました。
実は、私のような写真と縁遠い人間からは、細江先生は戦後を代表する写真家として名前は知っているけれど、どこか歴史上の人物のような、昔の人という印象は否めませんでした。多分、A氏以外の編集者もそうだったと思います。
けれども、A氏には、江崎先生同様細江先生にも思い入れがあり、科学者の内実を踏み込んで撮影できるだけの写真家は他にはいないという思いから、細江先生に本誌での撮影を申し入れます。
しかも1カットいくらではなく1号につき80万円という破格の安さで、写真点数も、その号を構成できる必要な点数という制限のない条件を提案したのでした。当然、難航を予想していたのですが、意に反して細江先生は「この雑誌の主旨は素晴らしい、協力させてください」と了承され、12月中の予定をその場で電話をかけてキャンセルし、ニューヨーク行きに備えてくださったのでした。
細江先生に、後日伺った話では、引き受けた理由は、この時のA氏の迫力に押されたのもあるけれど、商業誌のように1カットいくらとか、1日の行動旅費いくら、というような依頼だったら断っただろうね。全勢力を傾けて撮影した写真の場合、こちらも何点かの流れで、その人物を表現したいと思うものだから、その構成を含めて使ってくれるという条件が嬉しかった。やってやろうという気になったよね。金額じゃないんだよね。ということでした。
細江先生ほどの方ならば、金額ではなく、本人がやりたい企画かどうかが大事で、それを提示したA氏の迫力勝ちだったということなのでしょう。
こうしてスペシャルインタビューの舞台は整い、創刊号はその発行に向けて順風満帆ということになるのでした。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。