「17条憲法」と「日本国憲法」と「鈴木義男」と
昨日の記事の続きです。
保守すべきは、日本をどんな国にしようと先人が考えたかであり、私たちは、未来にどんな国を渡そうとしているのかを求め、その理想に欠けている現在を革新すべきなのではないでしょうか。
こう書いたわけですが、今の政治にかけているのは「理想論」だと思うんです。あまりにも「現実に即した話」と言いつつ、実際には現実離れしている政策の連続ではないかと。
コロナ禍に露呈した政治主導の限界
これらは、小選挙区比例代表並立制と政党交付金を柱とする政治改革四法の導入以降に起きた政治家の矮小化と、政治主導の名の下に官僚人事を官邸が握るようになってからの官僚の矮小化のためだろうと感じています。
政治的目的はあっても、世界観のない総理が主導するコロナ禍対策は、混乱に満ちたものでした。そこには、政治主導ではコントロールしきれない行政システムの機能不全や、官邸主導で高い目標ばかり先行し現場の疲弊が募るワクチン接種推進や病床確保不足などの問題がありました。
議席さえ取れれば良い政治家と、政治家に人事を握られヒラメのように上ばかり見ている官僚では、コロナ禍のような有事には対応できないということだったのではないでしょうか。
問題の根源は、安倍・菅政権に共通する構造的な欠陥にあるのではないか。変異ウイルスが次々と現れ、新型コロナの終息まで、長ければ数年はかかるだろう。「ポスト菅」の不在がささやかれるものの、どのような形であれ、菅政権もいずれは終わる。現状のままでは、後継政権もまた厳しい状況におかれるのは必至であろう。問題はそれほどまでに根深いのである。
ポストコロナなのか、ウィズコロナなのか、ゼロコロナなのか、どうなるかわかりませんが、少なくても21世紀らしい理想論として「どういう世界にしたいか」を持った政治家に託さなければ、日本の未来は無いと思ってしまうのです。
枝野ビジョンを読んでみた
昨日の記事でも書きましたが、著書「枝野ビジョン」の中で枝野幸男さんが立憲民主党は「保守本流」だと言っているらしいので、昨日、本屋で立ち読みしてきました。
それにしても、河野さんの本や高市さんの本が平積みなのに、枝野さんの本を探すの大変でした。1冊しかなかったし。一緒に置いてあげて欲しいなあ。
佐々木俊尚さんが記事の中でまとめた通りではありましたが、やはり20世紀の言葉でしかなかった。これわかりやすいのでもう一度引用します。
(1)日本には、「奈良時代から江戸時代までの1500年の伝統」と「明治維新から現在までの150年の伝統」の二つがある。
(2)立憲民主党が大事にするのは1500年の伝統であり、現在の自民党が大事にするのはわず150年の伝統でしかない。
(3)それでも20世紀の自民党はリベラルな政策を実現して分配してきて評価できるが、現在の自民党はそうではない。
(4)しかも強引に20世紀の日本社会を変更しようとしており、これは「保守」ではなく「革新」である。
枝野さんが言う奈良時代からの伝統というのは、聖徳太子の「17条の憲法」のことでした
有名な「和を以って貴しとなす」ですね。でも、この憲法自体は、その後、「篤く3法を敬え」とあって、仏教の尊重を規定するものですし、さらに続くのは、天皇の詔は絶対だし、役人は礼法を守れ、とあり、その内容をまとめると、官僚及び人も上に立つものはちゃんとしろということです。
ある意味で、現在においても「常識」とも言える内容なので、日本人が守るべき根本がここにあるという枝野さんの指摘もわからないではありません。ですが、聖徳太子が、それを敢えて文章にして守らせたいと思うような世の中だったことを示しているとも言えます。そうなると、日本人はもともと「上に立てば強欲で傍若無人に振る舞いがち」「和を以てと言われないと仲良くしない」ということなのかもしれませんよね。
さらに日本人が培ってきた「伝統」は、寛容と助け合いの精神で、それは八百万の神々を持ち、水田稲作と村落共同体で培われたと、憲法9条が守られてきたのも、そうした日本人の精神に符合するものだったからなのだと書いています。
では、現在のネット上の不寛容と国会論戦での罵り合いは、なんなんでしょう?
特に立憲民主党の議員に顕著な気がするんですが(蓮舫さんとか辻元さんとか)、寛容とか助け合いは、そこにあるんでしょうか。
なぜ戦後日本は「リベラル」だったのか
冗談はさておき、さらに20世紀の自民党政治におけるリベラルな政策を評価した上で、現在の自民党(小泉政治以降といっていいでしょう)は「保守ではない」、さらに安倍政権下は明治以降の日本だけを見て、今の日本を「革新」しようとしていると、まとめているわけです。
これについては、昨日私が書いた以下の言葉の通りです。
戦後復興の中で、自民党が社会党とセットの55年体制の元で行った政治が「保守本流」で「リベラル」と親和性を持っていることを評した点は、枝野さんに同意します。それは、「右翼と左翼」の中で浅羽通明さんが示したように、戦後の日本政治は日本の経済成長のために社会党があげた問題を自民党が解決する政策提言をして、法律の文案まで両党の目線で修正していった歴史だからです。
戦後復興を目指した日本を支えた人たちには、戦前の軍閥政治への反発が右派にも左派にもあったことで、とにかく「日本をよくする=経済復興+積極的平和主義」という機運に満ちていました。
その辺りが垣間見えたのは、実は先日録画を見たのですが、今年の憲法記念日あたりに放送したNHKの番組でした。
日本国憲法の制定にかかわった人物の再評価が始まっている。ギダンさんの愛称で親しまれた福島県の法学者・鈴木義男(すずきよしお)。東北大の教授時代、軍事教練に反対して教壇を追われた義男さん。弁護士となり治安維持法違反者の弁護に尽力。敗戦後、衆議院議員になると9条の平和主義や25条の生存権だけでなく国家賠償請求権や刑事補償請求権の追加を求め、三権分立の確立を目指す。その波乱の生涯を新資料をもとに描く。
2020年5月2日に放映され、2021年5月8日に再放送されました。私は再放送を録画してあって、つい先日見たところでした。
本当はこれだけで一つ記事になるのですが、この流れで書いておきます。
「義男さんと憲法誕生」に見る戦後復興の原点
内容については、良くまとめてある記事があったので、こちらを。
番組では次々に明らかになる鈴木義男の新資料をもとに、憲法改正案の小委員会や法廷での弁護を忠実に再現。憲法誕生の陰で長く忘れられていた日本人による追加修正に光を当てる。
日本国憲法はGHQからあてがわれたものだから改正が必要だという人(特に自民党議員)にも、9条には触ってはいけないという護憲派の人(特に社民党議員)にもぜひ見ていただきたい内容でした。
ギダンさんこと鈴木義男を中心にした番組でしたが、そこにあるのは日本国憲法に対して、日本人の心を込めようと「討論」する自由党、進歩党、社会党を問わない議員一人一人の誠意あふれる姿でした。
まだ見ていませんが、同様の番組に、以下のものがあります。
日本国憲法の施行から70年。平和主義の出発点が新たな資料で明らかになった。昭和20年9月、昭和天皇は勅語で平和国家の確立を明らかにした。しかし、GHQ草案の条文には平和の文字はなかった。その後、衆議院の小委員会で鈴木義男議員の発言を機に議論があり「国際平和を誠実に希求」する条文が第九条に盛り込まれたことが明らかになった。速記録をもとに小委員会をドラマで再現。“平和国家”誕生の舞台裏に迫る。
こちらは2017年に放送されていますが、登場する人物の配役が同じなので(特に昨年亡くなった斉藤洋介さんが芦田均の役で出ているので、この頃のものではないかと思います。そして、斎藤さんが芦田均に実にそっくりなのです)同時期のものかと思います。
この衆議院の小委員会での「論戦」は条文の文言をめぐって、各党からの代表が言い回し一つに対して意見を闘わせています。
それについては、鈴木義男は東北学院出身なので、東北学院大学の学長さんも詳しい記事を書いていました。
GHQ草案は、「第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決としては、永久にこれを拋棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない」というものでした。非戦や非武装は語られていても、平和という言葉は見当たりません。鈴木は、1946年7月27日の小委員会において「唯戦争をしない、軍備を皆棄てると云うことは一寸泣言のような消極的な印象を与えるから、先ず平和を愛好するのだと云うことを宣言して置いて、此の次にこの条文をいれようじゃないか」と発言して、「平和」という言葉の9条への挿入を主張したのです。それが保守派の議員らの賛同を呼び起こし、「日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し」という芦田提案を引き出し、現行憲法9条につながっていきます。
つまり、9条に「平和」の文言を入れたのは日本人であり、当時の議員たちの論戦の末だということなのです。日本国憲法は決してGHQから与えられただけのものではなく、与野党を問わない議員の真剣な日本を思う気持ちから発する議論があって成立したものだということがわかります。
そのほかに生存権や国家賠償請求権、刑事補償請求権などについても番組では速記録から明らかにしていますが、その論議を見て、先の記事を書いた方はこう書いています。
この番組を見て、あの頃の政治にあって、今の政治に無いと思えるものは何でしょうか。
いろいろなことが感じられますが、なにより政治家の「論議する熱意」ではないでしょうか。
そして、この番組が作られた経緯を考えて、今の政治との差を嘆きます。
議事録を「はじめからそんなものはなかった」とか、記録文書は既に廃棄された、と聞かされることがとても多くなっています。そうした処理が目の前にある不都合なことを隠滅するため、ということが見え見えです。さらにそのようなやり取りを通して、ほとんどこの政権は、ろくな「論議」すらしていない、政治家や役人が本来やるべきことをやっていないし、責任も感じていないのではないかと思うほかありません。
今、起きている問題を考えることに加えて、後世の人たちが、人々が積み上げてきたものを知る手がかりになる可能性を、自分たちの目先の都合で、次々と壊していると同じです。政治という「文化」と「歴史」を、次々と壊していった破壊者であるという汚名が自分たちにかぶせられるということをわかっているのでしょうか。
全く同意なので、敢えて引用させていただきました(許可は取ってませんので、もしご本人がお嫌ならばお知らせください)。
22世紀を見据えた議論を
日本国憲法については、個人的には、きちんとした議論を踏まえて、21世紀どころか22世紀に向けたアップデートが必要だと考えます。それは、GHQ素案に対して、条文の追加(しかもアメリカ国憲法にもない権利や、生活権とは別に生存権もドイツ憲法に即して追加)も含めた議論があった1946年の小委員会のように、一つ一つ向き合って議論していくべきだと思います。
実は、聖徳太子の「17条の憲法」の第17条は、次にようにあります。
(和楽の記事より引用)
第十七条、夫れ事は獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし……。
「それごとはひとりさだむべからずかならずしうとともにあげつらふべし……。」
訳文「物事は独断で行ってはならない。必ずみなと論じあうようにせよ。些細なことは必ずしもみなにはからなくてもよいが、大事を議する場合には誤った判断をするかも知れぬ。人々と検討しあえば、話し合いによって道理にかなったやり方を見出すことができる。」
枝野さんが「17条の憲法」が日本の伝統なのだというのならば、是非、この17条を守って、「独断で行わず、議論を」踏まえて、政治を変えていっていただきたいものです。
何かと「あげつらふ」ばかりで、議論になっていないのが気になります。
鈴木義男は、日本社会党の議員で、戦後の革新内閣である片山内閣の法務総裁(法務省がなかったので)を務めています。
弁護士として戦前は宮本百合子の弁護もしていますから、日本共産党も無関係とは言えない。
こういう先人の姿に学ぶべきではないでしょうか。
ぜひ、与野党を問わず、この国の22世紀の姿を示し、そこからのバックキャスティング思考で政策提言、政治運営をしていただきたいものです。