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技術としての「合気」に関する分析と考察(2024.4.13版)

「透明な力」で知られる大東流合気武術宗範 佐川幸義先生の技術としての「合気」について、個人的に考察を進めるnoteです。そのため随時更新されます。

このnoteでは、今までに出版された書籍と雑誌の内容から、その分析と考察を行っていきます。

なお、参考文献や参考サイトを直に読まれた方が、合気について深く研究できることは確実ですので、ぜひ原文にあたっていただければ幸いです。

またnoteの内容を深めるために研究会を月一で行っています。真剣に合気について研究したい方はXのDMからご連絡ください。文献で公開されている一元の技法を中心に稽古をします。

2024.4.13【改訂ー両手捕り合気上げで小手を掴んだ相手の力を抜く方法、体の合気、透明な力】
2022.8.14 体之合気の図追加
2022.4.30 『脳(特に脳波)にまつわる「合気」と「超能力」の
共通性とその再現について』のnote記事リンクを文献研究前に追加
2021.9.25 参考の項目に「旧佐川邸の公園化を考える会
理想の合気公園をめざして」の佐川先生遺稿を追記
2021.6.6 小手の合気に関する「孤塁の名人」の文献研究を追加
2021.6.5 小手の合気に関するシステマの原理との比較研究を追加

合気の階梯〜私的考察と仮説〜

①小手の合気についての考察

合気の第一歩である小手の合気は、合気上げで敵に捕まれた手首の手の内(内的筋肉の微妙な動きや内的イメージ)を使って、敵の力を抜く。

またその基礎となる合気上げでは、敵の母指球付近のある点に手の内を使い、敵の力を外し、腕でなく手首(手の内)であげる。

そのとき、山吹の花のような手の開き方で敵の親指にからみ、敵の手をくっつけ、同時に力も抜いた状態になる。

2024.4.13【改訂ー両手捕り合気上げで小手を掴んだ相手の力を抜く方法】
昔の稽古日誌を読み直していて、「肘から先を相手にくれてやる」「相手の接点の皮一枚の感覚で少し引いてから押し出す」という口伝が見つかった。そこから肘から先の感覚を皮一枚「前」か「後ろ」にズラす方法で、これまでの仮説を統合できることがわかった。

具体的には、両手捕り合気上げでは掴まれた両手の肘から先の部分を、相手が押している方向に実感的イメージだけをズラし、そのイメージを保ったまま手首と前腕を軽く反らせて相手を浮き上がらせるというやり方になる。

相手の力を抜くなら「後ろ」にズラし、相手を圧倒するなら「前」にズラす。「前」の場合はズラした部分を優先させて相手に接触させるイメージで動く。

のイメージをつくるための鍛錬法が「合気体操」ではないかと思われる。

②体の合気についての考察

合気の第二段階である体の合気は、敵の力が出る範囲を一寸外すことが前提の動きとなる。

【2024.4.13追記】力が出る範囲を一寸外すとは、小手の合気の皮一枚引いてから押し出す感覚を胸など体で行う。体の変更が感覚の鍛錬に役立つ。

また小手の合気を応用して、敵の手を離さないようにしながら、体捌きで敵の体を倒れる位置関係になるまで直す。

そして透明な力で、必ず倒れる角度に真っ直ぐ軽く押し返す。

正面打ち、片手捕り、諸手捕りなど
前回りで投げる、引き技、浮かせる技など


横打ち、コバ返しなど


必ず倒れる角度の例。

自分の小手の小指球あたりの柔らかい箇所を接点にして、相手の骨格をイメージして倒すと技の精度が高まる。

体捌きで押せる角度に自分の体を動かすことが重要。

③透明な力についての考察

体の合気に必要な透明な力は、小手の力と腰・爪先への力の集中を一本にして、半歩出ながら発揮される。

【2024.4.13追記】力の集中には皮一枚引く感覚とは逆の、皮一枚出たイメージを先行して相手に作用させる「出る合気」を使う。出る合気は一元の基本技術だが、密度を上げると力の威力も増す。接点の力は涸らす。

この力は、植芝盛平先生や塩田剛三先生の「呼吸力」と同種の力の可能性がある。「呼吸力」については、示す意味の範囲が広いため、④の領域も含む場合がある。


④一つになる合気(仮称)についての仮説

鍛錬により透明な力と体の合気が進歩すると、身体と意識が一体になり、体全体で透明な力を超えた力を発揮できるようになると思われる。

これは、肥田式強健術で語られる「聖中心」や、『弓と禅』で語られる阿波研造先生の「弓禅一如」の境地で発揮された現象に近い力だと推察される。

合気がこの境地に至ると、一瞬で敵を上や横に真っ直ぐ吹き飛ばすことができる。(「一つになる合気」と仮称する)

「一つになる合気」について考えるうえで、参考になる過去の記事↓


また最近の合気系YouTube動画から合気について考察した記事はこちら。


脳(特に脳波)に関連した「合気」と「超能力」の共通性とその再現について、考察をまとめた記事はこちら


「合気之体」「浮揚之合気」「力抜きの合気」について過去の仮説アーカイブはこちら。

参考文献

・木村達雄「透明な力」講談社、1998.9.10 第3版

・吉丸慶雪「合気道の科学」ベースボール・マガジン社、1998.1.20 第1版第14刷

・吉丸慶雪「合気、その論理と実際」ベースボール・マガジン社、1997.7.5 第1版

・吉丸慶雪「合気道の奥義」ベースボール・マガジン社、2001.9.21 第1版

・高橋賢「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」福昌堂、2007.9.15 初版

・津本陽「孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義」文藝春秋、2008.3.30第一刷

・BABジャパン「佐川幸義 神業の合気-力を超える奇跡の技法“合気”への道標」2015.3.10初版

・木村達雄「新版 合気修得への道」どう出版、2018.12.7「新版」第1版

・BABジャパン「月刊秘伝」2019年2月号・第374号 2019.1.12発行

・オイゲン・ヘリゲル 著、稲富 栄次郎 翻訳、上田 武 翻訳「弓と禅」福村出版、1981.11.1改版

・井上強一 監修、養神館指導部 編著「塩田剛三直伝/合気道 呼吸力の鍛錬」ベースボール・マガジン社、2004.2.20第1版

参考サイト

現代版『聖中心道肥田式強健術』 肥田春充研究会 編

呼吸力と抜き技 合気道日心館

肥田式強健術の構造―その八大要件を中心として―
酒井嘉和


〜以下文献研究〜


合気の階梯①小手の合気

合気は集中力とか、透明な力というような、いわゆる力とは違うものである。合気は敵の力を抜いてしまう技術だからである。そのうえくっつけて離れないようにもしてしまうのだから大変なことである。(「透明な力」p62)

私の合気はそとからいくらみても分からない。内部の働きで相手の力を抜いてしまい、形にはあらわれないからね、今では体中のどこをもたれても敵の力を抜いてしまう。もとは簡単な原理から出発しているのだが誰も気づかない。それに気づいたかどうかは合気あげをみれば分かる。(「透明な力」p63)

・合気=敵の力を抜く+敵の手をくっつける

・合気は内部の働きで相手の力を抜くため、形にはあらわれない

つかまれている手首だけに力を集中するには、初歩の段階では、「意識・イメージ」を持つことが重要だ。佐川先生が「合気は意識だ」というような表現をしたこともあるが、これは「合気の集中」には意識を強く持つことが重要だということだ。(「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」P193)

・合気は意識(イメージ)を使う要素がある

座取り両手捕り上げ手で合気を会得すること。わしが合気の崩しを会得したのがこれである。ここで重要な秘伝は、①.親指を我が方に向けてそらせること。②.小手を回すこと。回すからくっ付く。回すために山吹の花のごとくする。各指に力を入れることが大切である。(「合気道の奥義」p153)

・相手の手をくっつけるには、各指に力を入れ、手を山吹の花のようにし、小手を回しつつ親指を自分の方にそらせて合気あげする

いくら力の強いものでも大きい手でも小さい手でも、手をつかむには同じつかみ方しかない。そしてある点を外せば力は入るものではない。研究のこと。それができないから、早く出て上げるということを教えている。しかし一寸引けばそれでよい。(「合気道の奥義」p162)

腕で上げず手首で上げる。(「合気道の奥義」p187)

骨格的に人間の手は親指がなければ力が入らないので、親指を攻めて力を抜く。(「合気道の奥義」p159)

・人間が手首をつかむとき、力が入る親指を手首で攻めて敵の力を抜く

・手首を一寸引いて、敵の手の(親指に関する)ある点を外し、手首で上げる

全身の重みをかけて押さえこんでいるのを、手先だけで投げとばすのだよ。このとき先生は、幾つもの手の内を細かく使いわけていたのが分かったよ。(孤塁の名人 p230)

・手の内で攻める点は親指以外にもあり、それらを繋げて攻めつづけることで、諸手で押さえこまれても手先だけで投げることができる。

相手の力を受けず、力の入らぬようにして攻めるのが合気である。ただ力を抜くだけではなく、くっつけなければならない。合気の手の開き方でくっつく。単に開いただけでは合気ではない。(「合気、その論理と実際」p162)

・小手で相手の力を抜くことと、相手の手をくっつけることが同時に出来ないと合気ではない。その鍵が山吹の花のような手の開き方。

先生は御自分の手掌を私の前に出されて、ある所作をされました。そのとき「○(マル)に・(ポチ)」のイメージが浮かんで、これが「合気の種」と関係あると実感したんです。(月刊秘伝2019年2月号p20)

・この文章に対応する演武で、小原師範は肘の一点(一ヶ条で肘を掴む点?)を人差し指で押している。また文中では、何気なく相手の手の甲を人差し指一本で軽く触れたとあり、「○に・」は相手の弱い部分を○にイメージし、その中心の一点を軽く押すことと推察される。

・また同記事の「弍元の術理による合気投」は、"合気を発見する"手掛かりとなると口伝された「引く合気」とされる。少し飛躍はあるが、これも「○に・」のイメージが関連するなら、「○に・」は相手の合気的に弱い身体の部分を○にイメージし、その中心の一点を小手や指にイメージを集中して押せば腰砕けに倒せ、引けば相手をくっつけたまま腰から崩すという原理の仮説に行き着く。

・このようなイメージで押したり引いたりする原理は、ロシア武術のシステマにもあり、下の動画で押された力をアースのように相手に返す原理は、合気上げにも応用発展が可能だと思われる。

・このように考える理由は、佐川先生が両手捕の合気上げを行った写真(「佐川幸義 神業の合気」p47 電車の中で合気上げを行う佐川宗範 の写真、p146 佐川宗範による合気柔術「両手捕合気投げ」1枚目等参照)を見て、どの写真でも両手首の角度が左右対称ではない点が長年疑問だったことによる。

・そしてシステマ的な力をアースする原理が合気にも使われているなら、片手の力を吸収するイメージと、それを逆の手から相手に返すイメージを同時に使って相手を崩すために、左右の手首の角度を微妙に変えているのではないかという仮説も可能である。またこちらは合気拳法の原理にも応用可能と思われるため、今後検証していきたい。

・その他に小手の合気に近い口伝が、ほとんど交流がなかったとされる、塩田剛三先生の養神館にもあることは興味深い。

③ 相手の力を抜けさせるには、自分の力みが抜けきっていなければならない。そのとき一切の抵抗心と敵対感情がなくなっている。しかし、天地自然と一体になった自分自身は、しっかりとそこにいる。そんな自分に向けてきた相手の攻撃力は腰砕けになるが、そこに否定力が働かないため、なぜかその状況を体が受け入れてしまう。 (呼吸力と抜き技 日心館

・小手の集中力についての記述は、「孤塁の名人」に興味深いものがいくつもある。特に力を入れないと相手の手がくっつき、力を入れると相手を飛ばしてしまうというところだろう。

・また相手を押さえるときに、腹を練る感覚が養われるというのは逆転の発想といえる。

(小原師範の言葉)合気揚げで、相手の手をいかにくっつけてゆくか、その辺の感覚は自得する以外にない。相手の手をおさえるとき、肩や肘を楽にして腹でおさえる。そうすると腹が練れてきて、敵の突きのスピードに入ってしまえる。(孤塁の名人 p217)

ほんとうに大事なのは、相手に押さえこまれている両手の手首に自分の力を集中させてしまうことなんだ。それだけを考え、肩の力を抜いてしまう。(孤塁の名人 p222)

「まったく力をいれていないでしょう。力をいれればくっつかないでこうなるよ」また片手捕りをやると、こんどは先生の手が一瞬鋼のようになったと思ったとたん、バーンと何かがこちらへむかい飛び出してくるような感じで、はじきとばされてしまった。(孤塁の名人 p207)

合気の階梯②体の合気

合気は正面から押してくるのを押し返すのが最初の基本である。コバ返し等。これが進歩すると体之合気になる。(「合気道の奥義」P187)

まずふわりと受け、ふわりと崩し、次に思い切り攻める。(「合気道の奥義」p251)

合気の根本は次の三点である。①.攻める角度、②.人間の骨格的な弱点、③.力の集中。小手に力を集中する練習は重要である。しかし足腰の鍛錬が伴わなければ無意味である。(「合気道の奥義」p159)

・③力の集中が「透明な力」と関係するなら、「体の合気」は正面から敵が押してくるのを、①角度と②骨格的な弱点を攻めて押し返す技術を進歩させたもの

・体の合気には、足腰の鍛錬と小手への力の集中を同時に発揮して、透明な力にまで高める必要がある?

人間の力の範囲はまっすぐに立って手を差し出した手先までだ。そこから先には力を及ぼすことはできない。そしてそこから1寸(3センチ強)引き出せばそれで崩れるのだ(「合気、その論理と実際」p114)

手を差し出しただけで実はもう崩れているから、ある一点を軽く押すだけで倒れるのだ。(「合気、その論理と実際」p114)

人間は二本の足、二本の手で立っているのであるから必ず倒れる処がある。それが動けば理のとおりにゆかぬ。しからば体捌きによって倒れる処にまで体の位置を直せばよい、と考えてゆけば技が判る。(「合気、その論理と実際」p162)

敵に二本の手を許さない。これは秘伝である。足を少し引けばよい。たとえば差し手、両袖捕などすべてこの原理が通じる。もちろん強く捕らせても合気により力を抜くことはできるが、それ以前に右の心構えが必要である。(「合気、その論理と実際」p163)

①角度と②骨格的な弱点を攻めるには、(片)足を少し引いたり、肘を相手の体に押し付けるなどして、敵の力の範囲を外し、片側の力を無力化しつつ、体捌きで敵の体を倒れる位置まで直して、ある一点を軽く押す


合気の階梯③透明な力

一、私のやり方は合気で浮かせて必ず倒れる角度へ軽く押すからスパーンと倒れてしまうのだ。力でやっているようではだめなのだ。正しい角度でも力でやれば相手は頑張る事ができるのだ。私は全く力を入れずにやるから相手は頑張り所がないのだ。(「透明な力」p180)

・合気で浮かせたあと、必ず倒れる角度に全く力を入れずに軽く押すこと→ 透明な力

重心を常に爪先に置いて移動すること。この一見平凡なことが体捌きの極意である。(「合気道の極意」p237)

一本になって出る。手を張り肩の力を抜く。(「合気道の奥義」p256)

合気の体。小手、体、足の一致。(「合気道の奥義」p256)

小原(中略)体捌きを鍛錬した上で半歩がある。位置が見えてくるんです。(「佐川幸義 神業の合気」p92)

・透明な力を使うには、手を張り肩の力を抜いた小手と、体(=腰)と、重心を常に爪先に置いて移動する足を一致させ、敵が必ず倒れる角度と位置に、一本(のイメージ)になって、半歩で出ること

・体捌き技は、敵が倒れる角度や位置を知る鍛錬の要素が含まれている(そのため秘伝にした?)

「呼吸力の基本は、動いてもぶれない体の軸を確立するところにあります。そのためには、腰が立っていなければなりません。この軸を中心として、全身の働きをまとめていくところに、中心力が発揮されます。この中心力が、筋力や精神力や気力やリズムなど、体全体から発揮される作用を技の中に集中させると、そこに呼吸力が生まれるのです。(呼吸力と抜き技 日心館

元養神館館長の井上強一先生によると、正しい姿勢を強調されていた塩田剛三先生や、その師の植芝盛平先生は、上記のような体全体から発揮される作用を一つに集中させた力を遣っていたとのこと。

特に塩田剛三先生が語る呼吸力は、次の一つになる合気にも近い概念。

「呼吸力がうまく発揮された瞬間は、歓喜というか、嬉しさというか、パラダイスというか、そういうものがいっしょになった、とてつもなく素晴らしい心持ちです。そのときは一切の我がなくなっているのです。文字通りの無。相手に対抗しようなどという気持ちはまったくありません。自分も無く、相手も無い。全部自分の五体と思うくらいになるのです。だから、自分の手を動かせば、そっちに人は行く。逆に動かせば逆に行く。みんな自分についてくる」(「塩田剛三直伝 呼吸力の鍛錬」p77)


合気の階梯④一つになる合気(仮称)

稽古の時でも、やる時は心を一つにして、それになりきってやらなければならない。集中してしまうのだ。(「新版 合気修得への道」p218)

合気は身体が一つになるのだ。あんたらは部分的な力でやるからだめなのだ。身体を柔らかくグニャグニャさせても、それでは倒せない。(「新版 合気修得への道」p217)

・一本になって出る「透明な力」から、さらに心が一つになった、「体の合気」の先の合気だろうか?

佐川先生は九十歳代のある時、「私自身が合気になった。今までは合気をかけていたけど、すっかり変わってしまった。こうならなければいけない」と言われましたが、まったく次元が変わってしまい、どう掛かっていっても、まったく歯がたたなくて吹っ飛ばされてしまうようになりました。(「新版 合気修得への道」p166)

「身体が合気と一体になった」(「新版 合気修得への道」p168)

・晩年九十五歳の佐川先生の合気は、一瞬で相手を一直線に吹き飛ばす技だったという。「新版 合気修得への道」で語られる易の話が本質的に正しいのなら、佐川先生の晩年の合気は文字通り肉体的な次元を超えたものだったのだろう。

晩年の肥田式強健術の肥田春充先生は、下記のような言葉を残している。

 「人体の、物理的中心を鍛えること、そこに、精神修養の妙諦が潜んでいる。正確な正中心を、得ることによって、精神状態は、機械の如くに、支配せらるるものである。若しそれ、ピシャァッと、強大な中心力が生ずると、精神の中心は、自ずから下って、其の一点に集中し、一切の思念観想は、機械の運転が中止したように、ピタリと停止されてしまう。考えようとしても、考えることは許されない。思念しないのではない。思念することが出来なくなるのだ。明朗なる無念無想の状態は、自ずから現出される。」(肥田式強健術の構造―その八大要件を中心として―
酒井嘉和

この状態になると、難問も寝ているうちに結論から導き出され、難しい計算も瞬時に出来、床板を踏み抜くほどの力を発揮し、講演では一瞬で聴衆を惹きつけたという。

ここでも強調されるのは、正しい姿勢と心体の中心点における集中と調和である。

 この、境地が大正12年6月18日夜に春充に訪れたものである。この境地はそれまでの単なる腰と腹の中間に力を入れる「腰腹同量」、「中心力」とは異質なものとなっている。このことを、「身体の正中心点と、精神の正中心点とが、自ずから完全に合致統一し、聖境燦然として展開」したと春充が述べているようにそれは、肉体と精神、腰腹正中心と脳幹聖中心の両方に働きかけるものとなっている。この境地より、「正中心」は「聖中心」に純化され、それまでとは比べ物にならない様々な能力が発揮されているが、この「聖中心」に関する考察は別の機会に譲りたい。(肥田式強健術の構造―その八大要件を中心として―
酒井嘉和

また肥田式強健術のなかで語られる、武術に関する記述が、佐川先生の鍛錬に関する記述と似通ったところがあるのは、今後の研究課題である。

◇上体を真っすぐにして、姿勢を正しくする。
◇腕、肩、胸の力を抜いて、軟らかにする。
◇腰を、しっかり据える。
◇膝は、やゝ曲げる。膝が前へ出ないようにする。
◇姿勢を低くする。
◇体の重さを、支底面の中央(両足でつくる三角形の中心)に落とす。
◇両足を踏み開いて、踵と爪先との直角を拵える。
◇腰と腹とに、等分の力を作る。これを中心力という。あらゆる洗練徹底した姿勢動作の根本生命である。
◇力の使い方を、閃電的にする。
◇力を、加速度的に強くする。
◇閃電的、加速度的の力を、中心力と合致させる。
◇力を垂直に使用する。
◇力を中心にまとめる。
◇相手に当たる部分の筋肉を、緊張させる。
◇反対に、直接必要でない箇所の筋肉は、なるべく弛緩させる。
◇中心力十、部分力九の割合に、力を使う。
(中略)
◇もぎ取る場合には、相手の体に接近していく。
◇こうして、相手の弱い所を、非常な勢いで突き破る。その間、真に一瞬時。一回で、相手の心胆を砕いてしまう。(現代版『聖中心道肥田式強健術』 肥田春充研究会 編


参考 佐川道場 道場訓「合気之武道即ち人間修養の道」

合気は氣を合はす事である。
宇宙天地森羅万象のすべては融和調和によりて円満に滞りなく動じているのである。
その調和が合氣なのである。
合氣は自然の氣なれば少しの蟠りもなく抗ひもなく合一融和するものである。
人類社会形成においても合氣即ち融和調和が基調でなければならない。
これを合氣の大円和という。(以下略)
(「新版 合気修得への道」p54)

追記 現在佐川道場は閉鎖され、跡地を「合気公園」にしようと「旧佐川邸の公園化を考える会」が設立されているそうです。
そのサイトの中に、佐川先生の遺稿の一部が掲載されています。
道場訓より踏み込んだ「合気心」という表現が加わった、合気の幽玄さを垣間見られる文章で、とても興味深い資料です。
晩年の佐川先生は心の精妙な幽化がテーマだったのかも知れません。

(佐川先生遺稿より)

合気とは気を合わすと訓ず。気は宇宙天地の気なり。

合気の妙用は、天地森羅万象一切に合一同化し融和するにあり。

然れば我に対する敵は更になきものなり。

此の境地に幽没するよう心を治め、気を練り、体を鍛えるが合気の練成なり。

合気心に至れば、我なく人なく生もなく死もまた無し。

あたかも無人の広野を行くが如く空々無々万物の変動たちどころに心写し

身体は円融無碍変転自在にして尽きることなし。

合気は争う事を不致 

暴なる者には自然に出て空の合気天地自然の妙法にてその攻勢を無依ならしめ・・・

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