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うつ病の私が見ている世界 第7話

🍎 幻覚を消す薬

「ちょっ、ちょっと待って」
 診察の終盤、松永医師はボイスレコーダーを握って、
「フジリンゴ族の幻覚、メッセージを感じる、そんなに多い回数ではない」
「それで、フジリンゴ族が天界に行って、修行を始めると」
「はい。あの、変な話なんですが、般若心経も、涼やかな鐘の音色も、フジリンゴ族からのメッセージの…」
 ここで私ははたと言葉を止めた。
 松永医師は再びボイスレコーダーに、
「般若心経、涼やかな鐘の音色、聞こえた」
 やばい。
 全て事実だけれど、なんだか私、やばい奴みたいなこと言ってないか。
 実際、自宅で般若心経が聞こえてから、パート先の喫茶店でも般若心経は聞こえていた。鐘の音も事実だ。心が晴れるような、天啓とも言うべき鐘の音色。
 だが、それは、もっと松永医師と信頼関係を築いてから話すべきではなかったか。
 これじゃ私、ただの精神を病んだ変な人になってしまう。
「でも、うちの喫茶店、時々、お経を唱え出すお爺さんとかもいて、それを聞いたのかも知れないし、食洗機の稼働音とかコーヒーカップの音とかを、私が般若心経だったり天啓の音色と聞き間違えたのかもしれませんけど」
 すかさず松永医師が、
「鐘は天啓の音色」
 ボイスレコーダーに吹き込んでいた。
「天啓っていうのは、あくまで私の感想で、もっとこう、ヨーロッパっぽい音ではなくて、仏教界の、あの私は特に無宗教ですけど、澄んだ音色、心地よい音色、天女とかが鳴らす音みたいな意味で…」
「澄んだ音色、天女の鳴らす音」
 だめだ、私、ドツボにハマった。
 どうやって説明すればよかったのだろう。
 あれは幻覚、幻聴なのかもしれないけれど、私の精神世界における、祝福めいた出来事であったということを。
 しかし松永医師は、
「なんだか面白いお客さんが多いね。いきなりお経を唱える人がいるの」
 話題を変えた。
「はい。クロスワードやりながら般若心経を唱えて、二つのことを同時にすると脳トレになるとか言って」
「へえ、毎日そんなお客さんに来られたら、他のお客さんも困るんじゃない?」
「いやぁ、他のお客様も個性が強くて…それに、最近はお店にお見えにならなくて」
 しまった。
 般若心経クロスワードさん、最近、見てないことバラしちゃった。
 松永医師はふんふんと頷いて、手元のメモに何事かを書きつけた。
 〇〇心療内科の白い診察室。
 今日も透明のリンゴのペーパーウエイトが置かれていた。
 仕立ての良さそうなニットベストを着込んだ松永医師が椅子を鳴らして、
「今回は、ちょっと薬の種類を増やすからね」
「えっ」
「いや、軽いやつだから、とりあえず服用してごらん」
「見えなくなっちゃうんですか…」
 
 待合室に戻る私を、丸メガネの老女が微笑んで目で追った。
「新しいお薬が出ましたよ。あと、前の薬もちょっと増えて、どちらも一日3錠、朝、昼、晩です」
「ありがとうございます」
 老女のメガネは、澄んだ赤の細い縁だった。
 手動で開けるドアが重い。

 薬剤師の女性は、もう余計なことは何も言わなかった。
「今回新しく処方されたお薬が、こちら、エビリファイ1mg錠です。前回から引き続いて出ているワイパックスと同時に、朝、昼、夕食後に服用してください」
 エビリファイ1mg錠。
 調べてみると、『アリピプラゾール。非定型抗精神病薬のひとつ。総合失調症の治療薬として開発され、低容量では気分を持ち上げ、高容量では気分を抑える、幻聴や妄想の改善の効果が期待される』とあった。
 幻聴や『妄想』を、抑える。
 理解はできる。
 フジリンゴ族たちは、あくまで私の精神世界でのみ生きる存在だから、他人に無理強いしてまで信じさせようとは思わない。
 だが、きっと今も、リンゴ天界ではフジリンゴ族たちは、フジリンゴ天になるべくして日々研鑽を積んでいるのだ。
 もしエビリファイを飲んで、もしもフジリンゴ族たちが見えなくなっても、それはなんらおかしなことじゃない。それはきっと、フジリンゴ天となって、天界でさらなる修行を積んでいるに過ぎないのだから。 
 でも、時々は会いたいな。
 修行はどんな修行だろう。鬼滅の刃の悲鳴嶼行冥さんところみたいなのじゃないといいけれど、なんだかそんな修行を積まされていそうだ。
 フジリンゴ仏は優しげな面立ちだが、実に厳しい面もある。
 大丈夫‘だろうか。特に、初期型一号と二号。あいつらは、そんなに打たれ強いわけでは無いから、なんとか上手く修行を乗り越えてくれたら良いのだが。

 夫がくれた二箱のメビウスは、まだ十分残っているが、もう少し買い足しておこうとコンビニエンスストアに入った。
 パート先の喫茶店からも、家からも離れた店舗を選んだ。
 なんとなく、悪いことをしている気がして、タバコを買うところを人に見られたく無い。もう四十も半ばで、そんな可愛いことを言う年齢でも無いのだが。
 レジの奥、タバコが陳列されている棚を眺め、眉間に皺を寄せてメビウスを探した。電子タバコの普及でタバコの箱が小さくなり、なかなか銘柄に焦点が合わなかった。
 しかも電子タバコ本体の種類別で、吸える銘柄が異なるようで、慎重に選ばなければ損をする。何せ一箱500円の時代だ。二箱も買えば1000円にもなってしまう。
 店員は、コンビニエンスストアが酒屋か何かの個人商店からいたであろう老女で、ニコニコと私を見ていた。
「タバコ?」
「あっ、はい…」
「いいわねえ、やっぱり女がタバコを買うときは、いつまでもカマトトぶらなきゃ可愛げがないわ」
 思い切り時代錯誤なことを言い出した。
 もとい、この禁煙時代にタバコを買いに来ている私も時代錯誤でしかないのだが。
「何が欲しいの」
「メビウスってありますか」
「あー、なんだっけねそれ」
 老女が陳列棚を仰ぎ見て、
「次々代わるから、もう覚えてらんないの」
「あ、その145番です。二箱」
「だから、カマトトぶらなきゃ可愛げがないって言ってるのに」
 次は絶対、別のコンビニエンスストアに行こう。

 そして私は、ワイパックス0.5錠とエビリファイ1mg錠を服用した。

第8話に続く。

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