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うつ病の私、森に住む 第1話

🍎森のお家

 町から続く一本道は、一年中、紅葉した落ち葉に彩られ、そこ此処に野の花が咲き乱れていた。木立は、一足ごとに深くなり、木立と森の境目に、私の家がある。
 歩くキノコたちに見つからなければ、数分でたどり着くその家は、古いログハウスでかつては誰かの別荘だった。誰かは言った。
「あなたが町に戻る日まで、この家に住んでください。屋根裏に、古いレコードとたくさんの書籍と、画材があるのでお好きに使っていいですよ」
 その日から、私はここに暮らしている。
 食料庫には、定期的に食物や水が届き、保存食もたくさんあった。
 家具は一通り揃えられていて、寝具はお客様のものまで用意されていた。
「ただ一つ、条件があります。それはキツネの着ぐるみを着てもらうことと、喫茶TANUKIの営業をしてもらうこと」
 そういうわけで、私はキツネの着ぐるみを着て、森の中で喫茶店をやっている。
 珈琲豆の種類は12種類、古いやかんが三つ。カップは全て真っ白で、食事はトーストとゆで卵のみ。でも、レタスが採れる季節が来たら、サラダも出して良い。
 それとホットケーキ。
 素敵な小麦粉が手に入ったら、その時だけお客様にご提供する。
 キツネの着ぐるみは着心地が良く、大きな尻尾がついていた。
 深緑色のエプロンに白字で「TANUKI」と印字されていた。
 パンは毎朝、町のパン屋が届けてくれて、鉛筆で玄関の帳簿に数を記録しておく。
 本当の私は都会で暮らしていて、うつ病で、とても疲れているのだけれど、ここではいつも居心地良く、のんびりと暮らしているのだ。
 喫茶店の開店時間は午前八時から二時間だけ。
 営業は平日のみだが、夏休みも冬休みもない。
 そうしないと『完璧な休息』を求めてしまって、心身共に不調をきたしてしまうから、というのが誰かの意見だった。
 でも、その代わり、旅行休暇が年2回ある。使うかどうかは私次第。
 さて、今日も喫茶TANUKIの開店です。

🍎最初のお客様

 最初のお客様は、母さん熊とその子どもたちだった。
「私ね、こういう活動をしているんです」
 母さん熊はそう言って、一枚のステッカーを差し出した。
「熊に注意、ですか」
「ええ、熊には注意が必要ですからね」
「そうなんですか」
「まあ、私も熊なんですけど」
 そう言って母さん熊が大笑いした。
 双子の子供たちはミルクにパンを浸しては食べ、浸しては食べ、母さん熊はコスモスの刺繍で縁取られたエプロンを着けていた。
 エプロンには、木苺のシミがついている。
 母さん熊は続けて、
「ここは結界が張られているから大丈夫ですけど、この喫茶店の裏側から少し入ると、結界の外でしょう。あと、町への小径のちょっと向こうも」
「知りませんでした」
「あらっ、知らなかったの!誰かさんが説明しなかったのね」
 母さん熊は大仰に驚いて見せ、
「あなたの具合が良くない時は結界も狭くなるから、不用意に出歩いてはダメよ。結界のそとは危険なの」
 母さん熊はそう言って、淹れたてのモカを美味しそうに飲んだ。
 私は少し怖気付いて、
「結界?」
「そう。漫画とかアニメでも見るでしょう」
 母さん熊はニコニコ笑って、子どもたちの口元をエプロンで拭った。
「結界はね、あなたが安全に暮らせる場所なのよ」
「私が安全に暮らせる場所…」
「そう。結界の向こうは四足歩行の動物がいるから、すぐわかるわ」
「誰かさんが結界を張ったんでしょうか」
「ううん、そうとも言えるけど」
 母さん熊はモカを啜って、
「あなたが飲んでるお薬、それが効いてる間は結界が張られているの」
 私の目をまっすぐに見て言った。
 私が立つ喫茶店のカウンターには薬瓶が3つ並べられている。
「今、飲んでいるのはリスパダール、レキソタン、それに眠る前のベルソムラね」
「良くご存知ですね」
「この森の二足歩行は、あなたのことならなんでも知ってる」
 と微笑んだ。
「それをちゃんとお医者様に言われた通りに飲んでいれば大丈夫」
「お医者様。町の…」
「あなたが喫茶店にいるうちは、ヤギ先生が二週間ごとに来るから心配しないで」
「安心しました」
「それならよかった。ヤギ先生、すぐにわかるわよ。なんせ私より大きなヤギで、いつもマイクを持ってるから」
 また母さん熊は大笑いして、
「あのマイク、森じゅうに響くのよ」
 パンを食べ終えた小熊たちが、椅子をガタガタ鳴らし始めたところで、
「ああ、おごちそうさま」
 母さん熊がたち上がり、
「これ、お礼」
 ハンカチに丁寧に包まれた木苺を、そっとカウンターの上に置いた。
「ジャムにするといいわ。ちょっとあなたには酸っぱいから」
 そういうと、双子の子供たちを連れて帰って行った。

 母さん熊と子供たちの食器を洗って、水切りに載せると10時になった。
 私は表の看板をclosedにひっくり返して、一息ついた。
 カウンターの上で木苺がキラキラと光っていた。
 水で洗って、ハンカチに乗せておいたから、天窓からの日差しを受けていたのだ。
 ジャムを作って、まだ温かいうちにパンに乗せて食べた。
 砂糖をたっぷり淹れたので、とてもとても甘いジャムだった。
『お薬を飲むのを忘れないでね』
 母さん熊の声が聞こえた気がした。
 私はタイマーを夕刻にセットして、メモにリスパダールと書き込んだ。

 第二話に続く

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