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東日本大震災から6年7か月

3月11日、東北地方太平洋沖地震から8年が経ちました。8年前のあの時は僕もよく覚えています。会社の内部研修中に大きな揺れがあり、窓際のスクリーンがゆらゆら揺れました。その後のテレビ報道から事の大きさを知り、大変な事になったと思いました。

大震災って災害の名前なんですね。8年前の地震は「東北地方太平洋沖地震」、そしてそれに伴う災害が「東日本大震災」
地震は震災の名前ではないことを最近知りました。

地震のあと、被災地では災害復旧や復興事業が始まりました。これからどうなるんだろう?という不安はありましたが、被災地から遠く離れた兵庫県にいる僕は遠くから見ているだけの人のようでした。阪神・淡路大震災では僕の実家は揺れただけで被災しておらず、僕自身は関東にいたので大震災時の混乱を肌身では体験していません。仕事に追われ、生まれて一歳になる子供がいた僕は東北に行って何かしよう!という思いはありませんでした。

でも、復興事業で区画整理が行われると兵庫県から人を派遣する動きが出て、地震から1年5か月後の2012年8月に上司から宮城県石巻市に出向するよう辞令を受けました。そこから僕たち家族の東日本大震災は始まりました。4か月だけでしたが、小さな子供と嫁を置いて宮城県に行く、嫁はとても不安がっていましたし、子供に会えないのもつらかったです。月一回は戻ることが出来たし、毎日電話で話をしたりしましたが、やはり何かあった時に何も出来ないのはつらいです。実際、子供が高熱を出し救急車で運ばれることもありました。嫁には感謝しかありません。

石巻市に着いたとき、出来るだけ被災地を見て回りました。陥没した土地、一階がえぐれた建物、取り残されたお社、建物が無くなったまち、鉄骨だけが残った庁舎、打ち上げられた船、焼け焦げた小学校・・・・・。どれも被害の大きさを僕に語りかけてくれました。でも、どれだけ被災地を見ても被害者の気持ちはわからないし、復興事業に使命感は持っていたものの、どこかに支援者としての目線はありました。

仕事をしながら地域の人と僅かですが話をする機会があり、震災による悲しみと同時に、復興事業による支援の格差も知ることが出来ました。一番僕が被災時の事を知ったのは移動の車中で市役所職員さんが語ってくれた実体験でした。被災時の苦労、情報の伝達、物資の確保、身の安全の確保と支援の狭間・・・など、生々しい体験談は僕の心に響きました。そして、何より心に残ったのは、

震災後数日が経ち始めて口にしたおにぎりの味

あの味は忘れられないとおっしゃっていました。その言葉は僕の中で震え、なりよりも東日本大震災を身近に感じました。

地震は起こった時が始まりのときですが、大震災は自分事になった時が始まりだと思います。

今思うと僕の東日本大震災は6年7か月前に始まりました。4か月の復興支援で1地区事業認可を取り、工事着手設計を手掛け、補助メニューの拡大にも少しは携われました。駆け抜けた4か月は何ものにも代えがたく、石巻の方々や全国から来た職員さんと今でもお付き合いさせてもらっています。

地震は震度に左右されます、でも震災はその人たちの暮らしに対する深さ、深度に左右されると思うし、その深さや始まりは人によって違うと思います。

地震は一瞬ですが震災は続く、ぼくの中で東日本大震災は続いていますが、それは心の中に残るかすかな揺れ。その揺れがある限り、いつまでも被災地に対する僕の思いは続いていくと思います。

僕は4か月だけ石巻という被災地で必死に踊りました。それは大変でしたが、自分自身を成長させてくれた時間です。でも、被災地に住んでいる方々はいつまでも踊り続けなければいけません。それはどんな辛さなんだろう、どんな激しさなんだろう?僕にはわかりません。舞台に立たない僕には自分事にする想像力が働きません。でも、頑張っって欲しい。今日よりも明日の笑顔の量が少しでも増える日々を送って欲しいと思います。

最後に、各地を廻った時にみた三陸の海は印象的でした。打ち寄せる波の音は亡くなった方々の悲しみのようにも聞こえましたが、被災地を優しく包み込むようにも聞こえました。あの音、あの景色、あの美しさがある限り東北は大丈夫だと思います。


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