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枯尾野 Ⅳ


          十三
 あれから幾山河越えた先に、出雲はあった。松江駅に降り立ったとき、白い息が出た。土地独特の、捌けた匂いがした。
 静はタクシーに乗って、約しておいた宿に向かった。大きな橋と小さな橋を一つずつ渡ったところに、それはあった。市街の中にある、古い、平家の日本造りの建物であった。
 伝えておいた時間より少々早く着いたのだが、部屋は既に準備されていた。女将が出てきて、静の荷物を持って、案内してくれたのだった。
 何の変哲もない和室であった。床の間の掛軸に、達磨が描いてあった。
 女将は、仰々しい態度でもてなしてくれた。頭を垂れて、しきりに挨拶を述べたてるのである。静が半日かけてここまでやって来たことを知ると、まぁはるばる遠いところまでと言って、大儀だ大儀だと繰り返した。
 本来なら、ここに荷物だけを置いて、すぐにでも出かけるつもりだったのだが、静は女将が去ると、座布団を枕にして、寝かかった。旅慣れぬ身で、随分疲れていたのもあったが、何より枯尾野がどこにあるのか、見当がつかなくなったからであった。
 山がちの旅だったから、広い野原は少ないものだと思っていた。しかし、来てみれば、出雲は平野であった。見渡す限り、稲刈りが終わったがらんとした水田が続き、出雲全てが広野と言っても過言ではなかった。静は終着駅に近づく列車から、そのことに気づいたのだが、その時点で、杏子の行方など知れるべくもないと、諦めの感情が勝りはじめていた。やはり杏子の、出雲の二文字は、出まかせだったのかもしれない。
 うとうとして、いつの間にか夢を見ていた。左絵里の夢だった。
 左絵里は、ほとんど黒に近い紫色のどろどろとしたところにいた。上も下もなかった。浮いていたのではなくて、しかと足をつけているのだが、足場があろうはずもなかった。
 左絵里は、割合背の高い人だ。普段は踵の高い靴を履いているから、事実すらっとしている。
 会社に着てくるような格好をしていた。タイトなスカートに、白いブラウス、その上にカーディガン。身体を覆い隠すのでも、殊更締めつけるのでもなかった。
 会社で働いているときのような素振りである。誰かと立ち話をする、左絵里の笑み。すれ違ったときの、髪の香り。床にしゃがんで物を拾う、腰の豊かさ。静が思いもよらなかった左絵里であった。
 左絵里の顔は均整ながら、どこか抜けたところがある。鼻はまっすぐ通っている。口は大きく、笑うと小さい丸っこい歯が溢れる。    
 目だ。目が垂れているのだ。そこに愛らしさがある。しかしその瞳は、茶色く透き通って、目が合うや、自分の全てを引き込んでしまいそうである。
「田中さん」それで夢の後先は途絶えた。
 部屋の外にも、物音一つしない。備え付けの、和菓子でも茶盆でも、たやすく手で持ち上げられないほどの重みで、そこに存在しているようだった。
 日暮れて、間もなく夜がきた。部屋を暖めても、その四隅に冷気が居座る。足が冷えて、ごわごわした。
 鴉が鳴いた。どこの木に宿っているか、さっぱり分からない。見知らぬ地が、無限の広がりを持つ。
「お休みのところ、すみません」
女将の声であった。夕飯の準備ができたということだった。

         十四
 「このところ、人がたくさんおいでですよ」
朝方、女将が茶を入れながら、こう言った。駅前の雰囲気からして、そうでもなさそうだったので、静は意外に思った。
「式年遷宮というやつです。出雲大社で、本殿を建て替えるので、みなさん見にいらっしゃいます。六十年に一度のことですからね」
「どうして、それが観光の理由になるのですか」静が聞いた。
「お祀りしている大国主命が仮屋におられますので、以前の本殿の中を見学できるのですよ。これを逃すとまた何十年待つことになりますから、珍しいことです」
そうして、うちは小さな宿だから、団体の客を受け入れられず、あまり恩恵はないとも言った。
 お客様も式年遷宮でいらっしゃったのではないのですかと女将が聞くので、静は何と言おうか迷った。
「ただの観光です。出雲は何年も前から興味があって、暇を見つけられたので、思い切って来ました」
ようやくそう言うと、それは時期が良いときにおいでなさいましたと、女将は言った。話の流れで編集者をしていることに触れると、さも偉い人間に接しているように、言葉が一層丁寧になって、小泉八雲の旧跡について、いろいろ話しだした。
 聞き流して、一区切りついたところで、今度は静が切り出した。
「女将は、枯尾野という場所を知りませんか」
「何です」
「枯尾野です。ご存知ないですか」
「かれ、さぁ、出雲にですか」
「そうです。そういう名跡みたいな所が、あるはずなのですが」 
女将は黙り込んだ後、
「申し訳ございません、なにぶん学がございませんもので」
そう言って、女将は恐縮するほど、頭を下げた。
「大丈夫ですよ。どうかお気になさらず。多分ないのでしょう。ないならないで結構なのです」
静の気持ちに別段変化はなかった。女将が知り合いの郷土史家に聞いてくると言うのも、断った。
 松江の街を散歩した。めぼしいものは、ひとつとしてありはしなかった。ふらっと骨董屋に立ち寄って見たが、素人目にもがらくたばかりであった。
 城にも行った。敷地に、古びた洋館と天守閣があるのみであった。
 天守はこじんまりとして、中に武具、古文書の類が陳列されていた。それが杏子と関係があるはずもなかった。
 すぐに飽きて、来た道を戻った。城のお濠は緑にくすんで、波も立たない。その上に枝を伸ばす木から、縮こまって水分の抜けた葉が、くるくると、滑るように落ちて、水に浮かんだ。
 途上、人ひとり入れるか否かの花屋を見つけたので、気のまま一輪購った。名前は聞いても、よく分からなかった。大きな、黄色の花であった。
 眼前は赤光であった。それは果てが霞むほどの湖に、夕日が満面照り返しているからであった。静はあやしい気持ちがした。
 風が吹く、風が吹く。静の髪を乱して。その行く先など分かるはずもなかった。

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