枯尾野 Ⅹ
廿四
その寺は山の斜面に築かれて、境内に高低があった。静は石の段々を登り、手水場を横目に、伽藍へ向かった。
冷気が肌に染みるようである。そういえば、年の暮れも押し迫っているのではないか。静の繰り出す足も早まった。
本堂に近づいたとき、俄に雨が降り出した。静は急いで軒下に入った。
ふうと息をつくと、瓦屋根の狭間をつたって、幾筋もの雨水が途切れることなしに、地面へ流れ落ちた。仕方がないので、軒に上がって、止むのを待つことにした。
「雨宿りなら、どうぞ中へ」
女の声であった。
襖を開けると、広々とした御堂の隅に尼がいた。火鉢を前に手招きして、差し向かいの座布団へ座れという。
静が面と向かった人は若くもなく、しかし老けてもなかった。皺は深い溝になっていたが、それに取り囲まれた肌は血色良く、つやつやしかった。
「今、粗茶を差し上げますから」
背後の襖を開けて、尼はどこかに行こうとする。
「あ、お構いなく」
静の声は響いて、むなしかった。
尼が盆を持って戻ってきたとき、雨は又激しさを増していた。
「ひどい雨」
尼がそう言って、玉露を静の前に出した。静は礼をして茶を持とうとしたが、その手がわなわな震えて、一向に椀を口にあてることができなかった。
「濡れましたか。お寒いでしょう。さあ、火鉢へ」
その言葉に甘えて、両手を火にあてた。
「今どき火鉢ですか」
「ええ、捨てたものじゃありません。お堂が広くても、これ一つで十分なんですよ」
外でごおっと風が吹いた。
「廃寺だと聞いていましたが」
「半年くらい前ですか、勝手に住み着くような形で、ここでお勤めをしています。この火鉢も、寺が捨てられる以前に使われていたもののようです。埃まみれだったのを、綺麗に磨いて」
尼は茶を啜った。
「お一人でお住まいに?」
「はい」
「寂しいでしょう。周りに人家などありませんし」
尼も火鉢に手をかざしながら、
「いえ、山を降りて海から少し離れたところに集落がありましてね、そこの皆さんがお米やお野菜など持って、ここにいらっしゃいます。この炭も頂いたものです」
炭がじんわり赤い。
「いつもという訳ではないでしょう。話相手がいないと何とも切ない気持ちがします」
「そういうご経験がおありですか」
尼が聞いた。
「ええ」
「そうですか」
尼は失礼と言って、火箸で炭を整えだした。
「でも、ここでは話相手に困りません。虫たちと会話するのも楽しいものです」
静は訝しんで、
「虫ですか。虫が何か話しますか」
尼は表情一つ変えず、
「話しますとも。境内には、かげろうがたくさん飛んでおりますからね。薄い羽に緑の体で、それはそれは優雅ですよ」
「ああ、ウスバカゲロウ」
「すぐに死んでしまいますがね。蟻地獄でいるときは、図太い生き様なのに。不思議なものです」
静が茶を諦めたとき、尼が改まって、
「よくここまでおいでになりましたね。道が悪いのに」
「ええ、大変でした。崖の下がすぐ急流なので、落ちるかと思って、怖かったです」
「そうでしょう。一千年の昔から修験道を志す者たちが修行をした地ですから、その道でない人は、なかなか縁のない所です」
「そうですか」
「はい。国中でお釈迦様を拝むもっと前から、この山には人が集っていました」
「神秘的ですね」
「いろいろ伝説もございます。霊験あらたかと言ったところでしょうか」
「あなたはそれを目当てにいらっしゃった」
「いえ、私は偶々です。寺の由緒も来てから知りました」
なるほどと静は返した。
「しかし、良い頃合いに来られました。山も一面の紅葉でしたでしょう」
「紅葉ですか?」
「今が見頃ですよ。ちらほらそれが目的の方が登ってこられます。あなたも紅葉狩りのお客さまかと思っていましたが」
「まさか」
「そうでしたか。でも勿体ないですよ。ご覧になればよろしいのに。この縁側からでも素晴らしい風景です。お見せしたいのに、雨が残念」
尼はそう言って、手近の襖を少し開け、外を覗いた。
「あら」
「どうしました」
「雨、もう止んでいました」
尼の手によって、さあっと景色が開けた先には、山また山に燃えるような紅葉であった。
まだ緑の木、黄色に光る葉もまばらに見えたが、ほとんどが赤く色づいていた。谷を挟んだ向かいの山も、その上に頭だけ出す朧な峰々も、炎の如く風に揺れていた。
静は回廊に出て庭を見ると、そこに一本もみじの木が植っていた。柔らかい日差しに見事な葉がひらひらと、行きつ止まりつ遊ぶかのように、いつまでも地面に落ちようとしない。それが確かに落ちたとき、強い風が吹いて、向かいの山の葉を散らした。
それは巻き上げられて亦ひらひらと、ゆっくり谷底に沈んでいった。見れば川も、紅に染め上げられている。
静は尼に、
「枯尾野を知りませんか」と聞いた。
「枯尾野」
「私は一度そこへ参りましたが、どこにあるのやら、今でも分からないのです」
尼はやや考えて、
「それはご自分でお探しになった方がよろしいでしょう」と言った。
静は頷いて、寺を辞した。
静はもと来た道を歩き続けた。森もせせらぎも足元も、皆落葉に埋め尽くされている。静は目の前に現れる眺めに、見とれてやまなかった。