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枯尾野 Ⅵ


         十七
 家のポストに、左絵里の手紙が入っていた。切手はなかった。白の螺鈿のような、綺麗な封筒であった。
「田中さん、どこかにお出かけでしたか。行き違いでもなく、何だかお会いできないようなので、手紙を残しておきました。
 こういうふうに、人に宛てて文章を書くのなんか、何年ぶりなんだろう。昔はよくペンを走らせていたんですよ。小学生の頃かな。友達どうしで小さな手紙を交換しあうんです。今日はこういう授業があって、先生に褒められたとか、誰それちゃんが泣いちゃったとか。みんな知っているのに。
 話がそれてしまってますね。すみません。  
 この前はごめんなさい。それが言いたくて、この手紙を書いているんでした。あの日は勝手に上がり込んで、失礼ばかり。酔った勢いでご迷惑をおかけして、どうか許してくださると幸いです。
 田中さん、あまりお酒を召し上がらないから、私のこと信じられないとお思いでしょう。そう感じるのも当然です。本当に私が悪いんです。青木社長に誘われたからといって、言い訳になるような話ではありません。私が飲みすぎたんです。本当にごめんなさい。その上、田中さんにまでご迷惑を。あのとき、どうして田中さんの家へ足が向いたのか、私にも分からないんです。
 田中さんが今大変なこと、青木社長がそれとなく仰っているのを、私聞いてしまいました。それも謝らなければならないのですが、それだけに、私がとんでもないことをしでかしたのだと、あのあと気がついて、冷や汗が出ました。私、田中さんを本当に土足で踏み荒らしてしまったんですね。
 どうか私を叱ってください。私を怒鳴ってください。私はどんな理不尽な仕打ちでも、何でも受けます。もう一度家をお訪ねする資格もないと思ったけれど、殴られてもいいと思って、何度も何回も呼び鈴を鳴らしました。だけど、田中さんはいらっしゃいませんでした。
 罵倒でも、何か言われたほうがまだ幸せだって、これまで感じたことはありませんでした。人から言葉をかけてもらえないことくらい、つらいことはないのですね。私、今本当に苦しい。
 沈黙がお望みなら、もちろんそれを受け入れます。でも、もし私を許してくださるのなら、助けてくださるのなら、どうか私を怒ってください。打ってください。
 もう私と会ってくださらないことも、覚悟しています。そのときは、どうぞお体に気をつけて、お変わりなく。 
 さようなら」

         十八
 季節はめっきり冬であったが、静には生暖かく感じられていた。
 自分は何とがらんどうの部屋に住んでいるのだろうと、意識せざるを得なかった。一応部屋を暖めてみても、温度が上がっている気配がないのである。
 左絵里が描いた似顔絵は、ベッドの傍に貼ったままだった。もう眺めることもなかった。鏡に写る自分の姿を見たところで、面白いことなど何一つない。それと話は同じだと静は考えていた。
 左絵里に関して、どうにかしなければならないのは間違いなかった。許す許さないはともかくとして、会わなければ仕方がないだろう。沈黙が貫けるはずもなかった。何しろ手紙の封を解いてしまっているのである。
 読まずに捨てるべきだったか。その答えを探し出そうとしても、理屈に足をすくわれるばかりで、どこへもたどり着けなかった。最早どうしようもなかった。
 とにかく会えば良いのである。会いさえすれば、何とかなるだろう。静は自分にそう言い聞かせた。
 ある日の昼間、電話で左絵里を呼び出した。場所は会社にほど近い喫茶店であった。
 左絵里はキャメル色のコートを羽織り、その肩から黒の、割合小さなショルダーバッグを下げて、静の前に現れた。
 左絵里を前にして、静は言葉が何一つ浮かんでこなかった。顔さえ見れば、感情が揺れ動いて、口が動き出すと信じていたのだが、むしろそれは収まり、真空のような心持ちに静は傾いていった。
 店の喧騒が、どこまでも増幅されるようであった。試しに何か言おうと思っても、唇がぴったりくっついている。手汗が滲んだ。時間が進んでいるのか否かも、よく分からなかった。
 ただただ、左絵里が思われた。それも、どこか遠くに隔たった人を思い起こすように、その手や足が、脳裏に結んでは消えた。
「会社に戻ります。田中さんの気持ちが落ち着いたら、またお会いすることにしましょう」
沈黙を破って、左絵里がそう言った。
「ちょっと待って」
静はかろうじてそれだけ言って、手紙を左絵里に差し出した。
 左絵里は驚いた色だった。
「読んでくれたんですか」
「読みました」
「嬉しいです、私」
「嬉しい?」
「だって、私の言葉を田中さん、受け取ってくれたんでしょう。嬉しいに決まってるわ」
静がどう返して良いか、分からないでいると、
「どうして何も言ってくださらないの。私、怒られるものとばかり思って、覚悟してここに来たんですよ」
「正直あなたに対して、どういう自分でいて、何を話すべきなのか、見当もつかない」
「私は田中さんの後輩じゃないですか」
「後輩」
「そう。それも自分にひどい仕打ちをした後輩です。田中さんは、その後輩を懲らしめれば良いことじゃありませんか」
「では、君は何をしてくれるというんですか」
「私、何でもいたします。死ねと言われたら、ここで死にます。裸になれと仰っても、服を全部脱いでしまいます」
「そこまで言うなんて」
「冗談を申し上げているのではありませんよ。今、本当にこの場で死んでしまいましょうか?」

         十九
 左絵里は命の代わりに私の秘密を差し上げますと言って、静に昔話をしだした。
 左絵里は岐阜に縁がある。生まれではないが、父の実家が飛騨にあるので、お盆には一家連れたって泊まりがけで墓参りに行くのが、しきたりであった。
 左絵里には六つ歳の離れた姉がいる。勉強のよく出来る質で、いつも父から褒められていた。しかしその反動か、見目形は良いくせに、身辺を修飾することに無関心で、成人式の写真を撮るまで、おかっぱに近い短髪を変えようとしなかった。
 左絵里は飛騨が楽しかった。向こうには、男の従兄弟が一人いた。姉よりもう一個歳上で、いつも三人で虫取りやらして遊んでいたのである。
 うだるような夏であった。左絵里が小学二年生のときである。姉は中学三年、従兄弟は高校に入ったばかりであった。
 盂蘭盆を明後日に控えたその日は、かねてから一家全員で、市街に買い物へ行くことが決めてあった。早朝、祖父母、両親、叔母と皆起きだし、支度をはじめていたのだが、従兄弟が行くのを渋りだした。面倒で、疲れるとのことだった。
 珍しかったのは、姉もそれに同調していたことだった。姉はそういうことになると、率先して手伝いを買って出る人だった。左絵里は何だか面白そうだったので、二人を真似て駄々をこねた。
 結局大人が折れて、子らを置いて行った。途端に家から音がしなくなった。扇風機だけが響く。草が生い茂る慎ましい山の集落も寂れた家も、全て子供の庭になった。
 三人は暫くの間、何をするでもなかったが、従兄弟が川で遊ぼうと言い出した。近所には清流が流れていた。
 「面倒だから、ここから裸になって行こう」従兄弟はそう言った。左絵里には何の不思議もなかった。姉は一進一退、しかし服を脱いだ。
 左絵里は走った。一糸纏わぬ姿がこれほど快いとは想像もしていなかったのである。風を切れば、それがまとわり、包んでくれる。
 姉と従兄弟を置き去りにした末の川遊びは、無上の快楽を左絵里に与えた。
 火照った体を自ら川面に投げ入れた。底にゆらゆらしている魚へ、掌を目一杯伸ばした。水に飽きれば、川原にひらひらする蝶々を追った。
 しかし、ごおっと風が吹いたのである。川に被さる山の木々がざわめいた。左絵里は急に独りを感じて、怖気付いた。左絵里は姉と従兄弟を求めて、流れと逆さまに歩きだした。
 二人は川幅がやや狭まりだした所の大きな岩の陰にいた。だが、二人の様子はおかしかった。日の高い時間なのに、足元に落ちる影は一つしかない。
 恐る恐る近づいて、その岩の裏から覗いてみると、二人はぴったりくっつきあって、踊るように揺れていた。二人は交わっていた。
 絶え絶えの息は、蝉の鳴にかき消され、肉の弾ける音は、せせらぎと混ざり合った。
 二人は川そのものになっていた。ときに柔らかく流れ、またあるときは大きな石に飛沫を散らした。そうして木漏れ日を集めて、きらきら輝いていたのである。
 左絵里は息を呑んだ。
 左絵里がようやく我に帰ったとき、息急き切って胸のあたりが波打つ自分の体に気がついた。左絵里は川を背に、裸足のまま駆け出した。
 家の裏、山が迫る捨てられた畑の中で、左絵里は、二人がそうしそうされるように、自分の手で、底の方からじんわり熱くなった自分を隈なく慰めた。
 何も感じなかった。やればやるほど、体のあちこちが痛んだ。むきになればなるほど、体に跳ね返された。
 次第に左絵里の眼前が、朧げに霞んでいった。そのとき、そこら一面に咲いていた彼岸花の、痛いくらいに燃える朱の色が、ひと続きの帯となって、ふわふわ漂っていたのである。
 左絵里は静に、
「でも、あのとき、私は姉と従兄弟のどちらに惹かれたのか、今でも分からないんです」
そうして、
「今まで関係してきた中で、このあやしい感覚を、押してくれる人も引いてくれる人もありませんでした」とそっと言った。

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