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枯尾野 Ⅶ


                             廿
 それから左絵里は三日を開けず、家を訪ねてきた。
 左絵里は肉や野菜を買い込んで、何品も料理を作った。皆、静の好物ばかりであった。
 どうして左絵里が自分の好みを知っているのか、静は不思議でならなかった。話はそればかりではなく、風呂はやや熱い湯加減が良いことも、たまに飲むワインの銘柄、食器の在り方、書棚の本の名前まで、左絵里は分かっているようであった。
 疑問に思えば、きりがなかった。だが静は、左絵里に何も聞かなかった。事実、楽なのである。何しろ自分の性分とは関係なく、生活が荒れているのだからという思いが、静に萌していた。
 静が家事を手伝おうとすると、左絵里はそれを拒絶した。
「静さんに何かしていただくなんて、私が困ります」
左絵里はどこか怒ったように、毎度そう言う。それで家のことは任せきりになってしまった。それよりも左絵里が、静さんと自分のことを呼ぶようになっているのが、静には面白く聞こえた。
 左絵里は泊まっていくわけでもなく、さりとてすぐ帰るのでもなかった。風呂に入っていくこともあった。お湯までいただいて、すみませんと、始めは申し訳なさげだったが、今やそれも日常に溶け込んでいた。
 湯船から上がって髪を乾かしたあと、静の部屋着を着て、左絵里はソファで寛いでいた。よくそういう姿を見た。
 髪をいじくりながら、部屋にあった文具の鋏で毛先を切っていた。ほとんど寝そべるようであった。鋏を鳴らすと、手についた小さな切れ端になった枝毛を、束の間眺め、屑籠に捨てる。それを繰り返していた。
 左絵里は素顔であった。化粧を落とした顔は、印象が変わって見えた。素朴であった。案外幼いと静は感じた。
 髪を右肩に集めて、首筋がすらりと流れていた。静の着古したパーカーは、左絵里の起伏に合わせて上下して、ほのかに石鹸の香りが漂っていた。
「静さん」
「ん」
「そんなに見つめないで。恥ずかしいわ」
 ある朝、静が起きると、左絵里は寝室のクローゼットを開けて、がさがさ音を立てていた。
「何してるの」
「片付けをしようかと思って」
「そこは、自分でやるよ」
「そうですか」
左絵里は、手を止めない。
「いつ来たの」
「今さっきです」
「こんな早い時間に来なくたって」
「じゃあ、帰りましょうか」 
「帰りましょうかって、もう来ちゃったんじゃない」
「だって、静さん、ご迷惑なんでしょう」
「迷惑というわけじゃ、ないけれど」
「あら」
「何」
「このコート」
静がいつも着ているのを取り出して、
「少し薄汚れてませんか」
「そうかな」
「そうですよ。クリーニングに出さないと」
「それを出したら、古いのしか残らないから、困るよ」
「なら、新しく買えばいいわ」
そう言って、裏をひっくり返したり、ポケットに手を突っ込んだりしている。
「あ、びっくりした」
「どうしたの」
「いや、茎みたいなのが入ってて。もう枯れてますけど。何だろう、お花かしら」
静の方を向き、
「要らないでしょうから、捨てておきますね」

          廿一
 そうして、左絵里はいつの間か、家に居着いた。静はそのことに何とも感じていない自分がいることに、後から気づいた。こういうことは、もっと劇的なものだと考えていた。だが、事実はぬるぬる推移した。
 ともに時間を過ごすほど、静は惑った。左絵里には、峻険な山の凄まじさがあると感じていた。
 左絵里の機嫌は玉虫色であった。どこにどういう切れ目があって、喜怒哀楽の変化をつけているのか、その手がかりさえ静には掴めなかった。
 箸の持ち方がおかしいと、半ば言いがかりのようにして、怒鳴られたこともある。くしゃみをしたときは、変な音と言って大笑いしていた。
 静は呆れるというより、畏怖の念を抱いていた。激しく変転する左絵里の情感に、目を背けられない輝きを、静は感じていた。
 左絵里は家に住み着いたわけではなかった。
 四五日いて、もうここで生活するのかと思えば、三四日どこかへいなくなった。その間、連絡も途絶えがちであった。
 帰ってくるのは、昼のときもあったし、無茶苦茶な時間も何度かで、とにかく一定しなかった。
 左絵里は、どこに行って誰と会ったと、浮かれた調子で静にまくしたてた。
 大体は酒の席の話で、官僚、商社勤め、若くして財を成した企業家等々、肩書きを持った人間に会い、対等に話をし、あわよくば褒められる。そういうことに狂喜していた。
「偉いわ、みんな。努力した人の言葉って、一味違うんですよ」
左絵里は陶酔していた。
 左絵里の美は、ゆくゆく萎んでいくだろうと静は思った。それは、美がうつろいやすいからではない。美をうつろいの中に見つけ出す、たおやかな生き方を、左絵里は今までもしてこなかったし、これから先も出来そうにもないと、手にとるように感じたからであった。
 だがそれは、左絵里の今の鮮やかさと何ら関係がなかった。
 その日、左絵里はもう戻らないと思っていた。しかし明け方、玄関の扉が開く音がして、足音が聞こえた。
「帰ったの」
静が寝室の入り口から、暗い廊下ごしに問いかけた。返事はなかった。
 また酔い潰れているのではないかと思って、リビングに行くと、左絵里はソファに着のまま仰向けになっていた。寝ているようだった。髪が乱れていた。ぐったり疲れている様子で、しかし酒臭さはない。
「大丈夫?」
静は肩を揺すって聞いてみたが、首が小刻みに動いただけだ。左絵里の前髪を除けて、額に手を当てた。熱はないらしい。病気ではな いと安心して、そっとしておくことにした。
 静は寝室に戻った。二度寝をするつもりでベッドに横たわったが、もう目は冴えていた。
 左絵里は、普段決して多く肌を見せようとはしなかった。風呂に入るときも、脱衣所の扉をぴったり閉めて、中から音さえしなかった。朝、寝巻きから着替える場面にも、出くわしたことがない。必ず静より早く起き、装って、掃除なんかしていた。
 手には左絵里の温みがまだ残っていた。燻され続けた情念が、静の中で俄に形作られるようであった。
 静は起き上がり、もと来た廊下を戻った。足音をさせなかった。
 左絵里の前に立った。微かな寝息が聞こえた。唇は飾ったままに赤かった。
 静の手が左絵里に伸びた。指先がそこに達しかけた。しかしそのとき、静はちょっとも動くことが出来なくなった。
 最前の煮えたぎった湯のような感情が一切消えていた。静は冷汗をかいていた。
 静は自分自身が信じられなかった。何をしようとしているのか、自分でも分からなかった。
 静は急いで寝室に戻った。布団に潜り込んで、もう無理矢理寝てしまおうとした。しかし、またあの情念がふつふつと沸きたったのである。静は布団から出るまいと思ったが、体は熱くなるばかりだった。どうしようもなくなって、今の自分を止められるのは左絵里しかないと、静にはそう思われた。
 またゆっくりと左絵里に近寄って、左絵里に触れようとする。しかし、左絵里に髪の毛一本ほどの間隔を残して、冷水を浴びたような自分が戻ってきているのである。
 全部嘘に違いないと静は思い込もうとした。そうして左絵里から立ち去ったのだが、今度は寝室に入るまでもなく、情動がぶり返す。
 静はそこで立ちすくんだ。何かを考えているらしいのだが、思考の体裁があるだけで、生まれるものなどなかった。ただこの衝動は、固まったり離れたりしても、確かに存在している。
 静は左絵里に戻った。歩み寄った勢いで、手が迫った。確かにそれが左絵里に届いたとき、中指と薬指とが、左絵里のブラウスに跳ね返された。そこはもう、胸でなく乳房であった。左絵里は一枚きり、他に何も身につけていなかった。
 今度は掌をあてがった。外が白んで、部屋に光が差し込んでいる。全体、薄い水色に包まれていた。鳩が決まった間隔で、野太い声で鳴いた。響き渡る音だった。
 鳩は区切りをつけて、次の一続きを鳴くとき、その間隔を前より短くした。次へ次へまとまりをつける度、また短くなった。それが一息で鳴ききるほど、音を連ねて喉を震わせた刹那、それはあっさり断ち切れた。
「気はすみましたか」
静ははっとして、左絵里の顔を見た。目が合った。充血した気怠そうな目であった。
「痛いから、もう触らないで」
左絵里はそのまま寝息を立てた。

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