枯尾野 Ⅴ
十五
加賀の潜戸というところがある。古い謂れの、不可思議の洞穴である。
海に突き出た平べったい岬を、波間から覗けば、大きな穴が二つ、矢で貫かれたが故であると神話は記す。
先端にある、海に近い方は、佐太大神なる神の生まれ給うた所。その手前にあるのは、黄泉への懸け橋である。
子に先立たれた親が、我が子に逢いたい一心で訪れるのが、この陸の果てである。その在処も伝説も知らぬ人らが、知らぬはずの子に、夢枕でここを告げられ、弾かれたようにやって来るのである。
静は遊覧船に乗って、ここまで漕ぎ出してきた。空は薄曇りであった。海はその海のように荒れた。
嗅ぎ慣れたものとは違う、むき出しの潮の香に、静は目眩がするようであった。乗客は、観光目的の人間がほとんどであったが、数人、ちっとも外を見ようとしないのがいる。
船は盛んに煙を吐き出していた。そうでもしないと、途端に押し流さてしまうのだろう。道理で足が捗らない。いつまでも同じ所でゆたゆたと、まるで遊んでいるようである。
「あなたも潜戸においでですか」
振り返ると、五十歳半ばくらいの女性が立っていた。風に髪がさらわれて、ちらちらと白い毛が見えた。女性はそれを手櫛で整え続けた。
「いえ。たまたま立ち寄っただけで」
「あら、そうでしたか。手にきれいな花をお持ちでしたから、てっきり」
その言葉も波に呑まれて、途切れ途切れであった。
遠くに鴎が飛んでいた。女性は会話がなくなっても、立ち去る気配がない。静は何も言う気にならず、しかし邪険にもできず、持て余し気味になってきたとき、
「私、馬鹿なんです」
女性ははっきりそう言った。
「私は近江八幡の人間なので、潜戸なんて全然知らなかったし、よく調べもしないまま来てしまったんです。本当は潜戸に降りて、娘に手を合わせたかったのに、あそこへは自分で別に船を雇わないと、行けないそうですね。私、この遊覧船に乗ってから知りました」
女性は矢継ぎ早に、
「我が子も、私の馬鹿さ加減に呆れているに違いないんです。あの子の仕事が忙しいことも、妻のある人と付き合って悩んでいたことも、何にも解ってやれなかった。そのくせ、早く結婚しないのって、孫を見たいって、私の方が子供みたい」
甲高い笛の音がした。速度が落ちた。岬に目をやれば、大地が大きく穿たれている。潜戸である。女性はそれに気づいて、ではと言った。
「旅行を楽しんで。どうか良い一日を」
女性は別れの挨拶で、控えめに手を挙げた。手首にロザリオが、巻き付けてあった。
潜戸の中は五体の地蔵と、その横に小石が積み上げられた小さな塔が、おびただしいほど並んでいた。あれは賽の河原であると、ここを訪れた人達があの塔作っていったのだと、同乗している案内人が説明した。
しかし潜戸の奥をよく見れば、塔の体を成しているのは僅かで、皆一緒くたになり、見た目にはただの石の山である。
静は花を海に投げようかと思っていた。しかし、静の左手はそれをコートのポケットに収めた。
あの女性は、食い入るように潜戸を見つめている。
十六
日にちを切り上げて帰ると女将に伝えたところ、やや驚いた様子だった。
「何のお構いもできませんで」
女将はしきりに、そう言った。
宿の玄関脇のソファに座って、代金の精算がてら話をした。
「出雲は何にもないところですから、詰まらなかったでしょう」
「いえ、そういう訳ではないのです。会社に急遽呼び戻されまして、それで」
まぁそれはお忙しいことと、女将は相槌を打った。
「実はあなた様が、もうここへは戻らないのではと、私ども心配しておりました」
静は意外な言葉に驚いた。
「どうして」
「お気を悪くされたら、お詫びします。いや、そういうお客様が稀にいらっしゃるのですよ」
女将は続けて、
「出雲は確かに派手な観光地などありはしませんが、何でしょう、人々を惹きつけてやまない力があるらしいのです。切羽詰まったような顔をした観光客でもない人を、駅で見かけることがあります。みんな、神様にすがりたいんでしょうね」
女将は昔語りに過ぎないという色を浮かべて、
「以前当宿でも、行方不明になった方がいました。若い女の人でね」
はっとして、静は間髪入れず、
「それはいつ頃の話ですか」と聞いた。
「さあ、私が嫁いできてすぐのことでしたから、何十年も前の話ですね。新聞にも載りましてね。我々も商売になりませんから、あれには大変困りましたよ」
女将は何の苦もなさそうに、そう言った。
「あなた様も、そういうお方だと思っていました。あまりお出かけにもならず」
女将はにこりともしない。
「ここに着いたときも、お疲れのご様子でしたからね。夜中、うなされておられましたよ。誰かの名前を何度も呼んでいました」
静は背中が強張った。それがどういう名だったか、尋ねられそうにもなかった。
雪が降りはじめていた。徐々に積もりだしているようだった。列車の車窓から、それが分かった。