枯尾野 Ⅷ
廿ニ
左絵里は暫く姿を見せなかった。静はどういう顔で接したら良いか分からないでいたので、ほっとしたような、しかしそれで済まされる事ではないとも思っていた。
用事もあるだろうし、仕事も続けているはずである。それに下宿へ帰っていることも考えられた。どこに住んでいるのか、静は知らなかった。
部屋に一人残されると、照明を消した。すると途端に薄暗い影が身の回りに満ちた。
静が思いあぐねて、連絡し続けるのを思いとどまりかけていたとき、左絵里は帰ってきた。
左絵里はいつもそうするように、一度リビングのソファに鞄と上着を置いた後、風呂場の脱衣所に入った。そうして寛いだ格好に着替えて、ソファに戻るのである。
左絵里は、そこに誰もいないかのように振る舞っていた。持ち歩いていた文庫本を読み始めて、静を見もしない。
「ねえ」
頁を繰った。ひらりと音がする。
「左絵里」
ふうんと鼻から息を出す。
「ちょっと」
左絵里は溜息をついて、
「何」
返事をされれば、むしろ静が窮するようだっだが、
「この前のことだけど…」
「この前?」
「何日か前の朝のこと…」
「何の話?」
左絵里は本から目を離そうとしない。
「左絵里が寝ているところに、自分が…」
左絵里はああと、今思い出したかのような声を発した。
「あれがどうしたの」
「申し訳なくて…」
「別に気にしてないわよ」
左絵里は立ち上がって、流しへ歩いていった。
コーヒーを淹れて、左絵里がまた同じところに落ち着いたとき、静は、
「ねえ」
「今度は何」
左絵里は静を見た。冷めた顔つきだった。
「いや、一体どういう関係なんだろうと思って…」
「私とあなたがですか」
「そう」
左絵里は視線を本を戻した。
「今更そんなことですか」
「でも、全然分からない。あなたに触れたこともないし」
左絵里は咳を一つした。
「静さんは先輩ですよ。今ではお友達かな」
「じゃあ自分の秘密を教えたのは」
「罪滅ぼしです」
「世話を焼いたのは」
「それも罪滅ぼしです」
静の顔はどんどん力をはらんでいった。かいたこのない汗が流れだした。体は強張っている。
静の腕が左絵里に伸びた。肩を掴んだら、左絵里は体を折るようにソファから転げて、額は床に押し付けられた。静は左絵里に被さり、さらにその体を押し込めた。
「静さん」
声が震えていた。
「また私を襲うんですか」
静は首に両手をかけていた。
「あなた恋人がいるんでしょう。遠い所まで探しに行って」
「杏子はいなくなった。ただそれだけです」
左絵里はもがいて、その後動かなくなった。
静は左絵里を寝室に運び、ベッドに横たえた。部屋着はコーヒーに汚れていた。静は服を丁寧に脱がせた。
肩のあたりなど、静に迫る物があった。そこには、肥えることとは関係を持たない、ある種のふくよかさがあった。
静は左絵里の首筋に顎を寄せた。左絵里の匂いがする。そこには、香水では隠しきれぬ、女の腐った香りが漂っていた。熟れすぎた、女の身体の一番良いときを、今少し過ぎた匂いである。それは、拒否の思想を無下にする、無常の落ち着きと安堵を感じさせた。左絵里は、ようやく二十四になろうかという歳なのに、生き急いで、かくまでの芳醇を湛えるようになったのか。
左絵里と同衾し、額と額とを触れ合わせ、そして口付けた。そのとき静の眼前に、枯尾野が現れた。低い山々の、なだらかな尾根筋、多少の起伏があるなかに、一面すすきがなびいている。空は薄い雲が幾重にも重なり、陽の光がそこから滲みでるように、柔らかくあたりを照らしていた。
涼しい風が吹き、静をふわりと包んだ。これは杏子なのだと、全てが杏子なのだと、静は懐かしい気持ちに浸った。