【短編小説】「この怪物…」
猫のメンマが死んでしまった。
病気になり、動物病院にしばらくの間入院していたが、先生から「もうかなり難しい」と言われ、それならと覚悟して家に連れ帰って、翌日…。メンマは旅立った。
僕の家は、なかなかの山奥にあり、裏庭はうっそうとした林になっている。室内飼いのメンマは、よく2階の窓辺からこの林を眺めて過ごしていた。
僕は裏庭の林にメンマを埋めてやる事にした。
スコップで地面に穴を掘る。草や木の根が邪魔してなかなかの重労働だ。
息が上がり手も腰も痛くなる。だが僕は無心で穴を掘っていた。体に生じた痛みなんてメンマを失った心の痛み比べれば、どうという事はない。
視界がにじむ。いつの間にか僕は号泣しながら穴を掘っていた。顔が汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
号泣してる男が林の中で地面に穴を掘っている姿は、かなりの…うん、人に見られたら場合によっては通報されるかも。駆けつけた警察官に「違うんです!猫が…猫があぁぁぁ」と泣き崩れる僕と、それを見て困惑する警察官。
そんな図を想像して、こんな辛い状況なのに僕は少しだけ笑ってしまった。
そうこうしているうちに、ちょうど良さそうな穴が掘り終わってしまった。
メンマを包んでいたフリースを開いて、最後に一度だけふわふわの毛皮を撫でたあと、僕は穴の底にメンマをそっと横たえた。庭に咲いていた野花も添えてあげる。
優しくゆっくり時間をかけて、メンマの上に丁寧に土をかけていく。それから手を合わせ、一心不乱にメンマの冥福を祈っていた。
その時―。
ドサっ!!!
僕の背後で大きな音がした。それと同時に強い風圧があり、落ち葉や土ぼこりが舞い上がる。
「うわ!?」
僕はよろけて地面に手をつく。何が起こったのだろう、朽ちた大木でも倒れたのだろうか。そんな事を考えながら背後を振り返って見た。
それは「怪物」だった。「怪物」がそこにいた。
僕はもちろんドラゴンなんて見た事はない。そんなものは物語の世界の生き物だ。
だが、僕はそいつを見た時「ドラゴン」という言葉がまず初めに頭に浮かんだ。
でもドラゴンのような荘厳で神秘的な美しさは、そいつにはない。
形容するなら「地獄から這い出たドラゴンを滅茶苦茶に歪めまくったような歪な怪物」だ。
そんな怪物が僕の背後に悠然と横たわっていた。さっきの音と風圧は、こいつが寝転んだ時の物だったのかもしれない。
そんな一目見ただけで心臓を握りつぶされたような恐怖を感じる怪物と、僕は対峙している。目が合った状態でだ。
僕は腰を抜かした。死の恐怖で凍り付いた。そいつが今すぐに僕を頭からペロリと平らげるのではないかと、すくみ上った。
グゴゴゴゴゴゴゴ…ドドド…
怪物が地の底から響くような異音を発する。ひょっとして威嚇しているのだろうか。怪物の太く長い尾が一度バスンと地面を叩く。
僕は一体どうしたらいいのだろう。少しでも身動きしようものなら僕の命は一瞬で刈り取られてしまうのだろうか。
僕が動くに動けずに腰を抜かした状態で座り込んでいると、不意に怪物が僕から視線をそらした。興味を失ったのだろうか。相変わらず不気味な異音を響かせている。
ガパリ…ゾル…
怪物が口を開き、鋭い牙の覗くそこから長い舌をまろび出した。
『喰われる!!!』
その舌が僕にはまるで死神の鎌のように見える。
ところがその鎌は僕に振るわれる事はなかった。怪物は自分の前足のような部分を舐め始めたのだ。ゾルル…ゾルゾル…。怪物の舌はデコボコしているのか妙な音を立てている。
僕は命の危険がすぐには無さそうな事に、ほっと一息、息をつく。あいつがこちらにまた意識を戻さないうちに、この場をなんとか離れなければならない。
移動できるような姿勢になるために、静かにゆっくりと体を動かしていく。力が入らないしブルブル震えているが、何とか四つん這いになる。これでどうにか這って移動できそうだ。
だが、こういう切羽詰まった状況にトラブルはつきものだ。
まったくもって、ひどいタイミングで近くに生えていた木の枝が折れて地面に落下した。……しかも僕のすぐ側に。
バサリと地面とぶつかり音を立てる木の枝。その瞬間、ものすごい速度で怪物が姿勢を変えた音が背後から聞こえる。
僕は恐る恐る背後を振り返る。今にも襲い掛からんばかりの体勢になっている怪物がそこにいた。目にあたる部分を大きく見開いている。
『おしまいだ…』
僕は恐怖におののいた。失禁しなかっただけ勲章ものだろう。
しかし怪物は、しばらくじっと木の枝を見つめていたが、とくにもう動くことはないと思ったのか、そのうち興味をなくしたように視線をそらした。
グパリ、グアァァァァ、と大きく口を開いて息を吸っている。あくびしているのかもしれない。いや、あれはあくびだ。
なんだろう…既視感を感じる。ものすごく見た事ある光景な気がする。
メンマと猫じゃらしで遊んでいた時の事だ。激しく猫じゃらしを振り回す僕と、その猫じゃらしを狙うメンマ。お互いにどんどんエキサイトしていって僕は叫んだ。
「よし!メンマ!取ってこい!」
猫じゃらしを部屋の隅に放り投げる僕。床に転がった猫じゃらしに今にも飛び掛かるような姿勢を取るメンマ。だが、猫じゃらしが動かずにポトリと床に転がってるのをしばらく眺めたメンマは、ゴロリと床に寝転んであくびをしてから毛繕いを始めた。その姿を見た僕の、やり場のない思い。
あの時の光景にすごくよく似ている気がする…。
まさか?いやいや、そんな訳…。でも、もしかして?
僕は先ほど落下してきた木の枝を手に取ると、おもむろにそれを振るった。枝に茂った木の葉がバサリと音を立てる。
耳の辺りをうしろ足でグネグネかいていた怪物が一挙にこちらを向き、臨戦態勢をとった。
僕がバサリと木の枝を振れば、怪物もそちらへ顔ごと視線を機敏に動かす。お尻の辺りをもにもにと動かしている。今にもこちらに突進してきそうだ。ぶつかられたら体格差的にひとたまりもないので、怪物の手前に木の枝を放り投げる。
怪物は、ばっと前足でそれを踏んだ。しばらくその状態でいて、木の枝がもう動くことがないと知ると、また寝転がって明後日のほうを見始めた。
やはりそうだ…間違いない。
この怪物は……「猫」だ!!!!!!!!!!!!
絶対そうだ!そうに違いない!誰がなんと言おうが、この子は猫だ!!野良猫なのか捨て猫なのかわからないが、我が家しかない山の中に飼い猫がいるはずがない!保護しなければ!!
猫を保護しなければ!!!!!
思えばメンマも保護猫だった。これは死んだメンマが僕に与えてくれた猫の縁に違いない。
メンマを失った僕の心が、激しく猫を求めている。
それから数年―。
僕はその猫にタンメンという名前を付けた。
僕が温室に入るとタンメンが寝転んで外を眺めている。僕らが出会ったあの林がある辺りだ。タンメンは放浪中に恐い思いをしたのか飼い猫になったあとは外に出たがる事はなかったが、外を眺める事は大好きで、よくこの温室に居座っている。
「タンメン、おやつのチュールだぞ~」
「チュール」の一言にタンメンのテンションは鰻登りだ。グゴゴゴゴゴゴ!!ドドドドドド!!と豪快に喉を鳴らしている。僕はどんぶり一杯に絞り出したチュールをタンメンの前に置いてやった。鼻先をどんぶりに突っ込むようにして長い舌を器の中でのたうち回らせている。顔も床もチュールまみれだ。そんなべちゃべちゃ顔であらかた食い終わると「満足」と言わんばかりに、のっちゃりくっちゃり食後の舌なめずりをしている。
「も~ほんと食うの下手なんだから」それを見て笑う僕。
タンメンと暮らし始めて数年、最初は色々大変だった。タンメン用に家をたくさん改造した。タンメン用の出入り口の巨大猫ドア、豪快な爪とぎに耐えられる爪とぎ場、公園の砂場サイズの猫トイレ。
たくさん困った事があったけど、たくさん笑った数年だった。
メンマを失った悲しみが今でも胸に去来する事はある。でもいつもタンメンがそっと側にいてくれた。「そっと」なのか「どどーん!!」なのかは別にして。
やっぱりメンマがタンメンと出会わせてくれたのだろうと僕は今でも思っている。
―ありがとう、メンマ。
※このお話はもちろんフィクションです。