新春スポーツ二景
時間をもて余す無聊老人に年明けの箱根駅伝は欠かせないエンタテインメントである。今年も愉しませてもらった。とりわけ駒大佐藤圭汰の堂々とした王者の走りに感銘した。
そんな感謝しかない箱根駅伝に唯一不満というか違和感があって、それは監督の声かけである。
ときに感極まって発せられる絶叫に興醒めしてしまうのである。「男(漢)になれ」、「1秒を削り出せ」、等々、陳腐な檄はわざわざ公共の電波にのせる価値があるとは思えない。
異論もあるようで、ある解説者は、某監督のある声かけが適切で以後選手の走りが変わったと持ち上げていた。しかしそれは走者の体に触れるのと同じくらいの干渉には当たらないのか、と言いたくもなる。
それを認めるのならどのレースにあってもよさそうなものだが、どうやら箱根駅伝だけの特例らしい。
スポーツの美学に悖るだけでない。そもそも、公共の場でのああした声かけ時に絶叫(往路は乗り合いの車内からのそれである)はみっともない、とするのが日本人の美学、感性ではなかったかと思うのである。
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元日の夜、BSでドルトムント対バイエルンの試合(実際は昨年12月初めの試合)を観た。
欧州リーグの試合を観るのは久しぶりだったが、昔も感じたある違いが懐かしくよみがえる。比較の対象はもちろんJリーグ。同じ競技であるはずなのになぜ違って見えるのか?
ひとことで言うと立ってプレーしている。ん?
接触プレーはもちろんあるが、ふたりして倒れこむようなそれが少ない、と感じる。よってプレーの流れが切れない。スマートなサッカー。
一方Jリーグや高校サッカーを観ていると、接触して倒れるケースが多いと感じる。結果、ATに積算されないようなデッドタイムが頻繁に起き、流れを感じない。プレーが再開したと思うとすぐに止まる。
サッカー指導の現場は知らないが、もしかして「当たっていけ」が決め台詞になってはいないか? 正しくは「ボールを獲れ」であって、当たってもボールが獲れなければ意味がないし、当たることが自己目的であってもこまる。
よく見せられるのは、ハイボールにふたりが跳んで頭をぶつけ倒れこむ光景。どう見ても届かないケースでも跳び上がって相手に身体を預け、ただ邪魔をしているだけ。無理と判断したら、即ボールのはねかえりを予測して奪取に動くべきだろうに!
閑話休題。
〇 Signal Iduna Park でのこの試合を観ていて想起したのはなんといっても香川真司のドルトムント時代のプレー。キレッキレのプレーでスタジアムを湧かせていたあの頃。ファンの勝手な愚痴だが、なんでマンUに移ったのかと、その後の香川のジリ貧(失礼)を見ると慨嘆せざるをえない。それはまるであの中国の古諺「鶏口となるも牛後となるなかれ」を地で行くようだった。
〇 駅伝といえば、年末の富士山女子駅伝での不破聖衣来のようやくの復活を言祝ぎたい。
〇 高校男子駅伝で一区区間記録を更新した八千代松陰の鈴木琉胤の走りに感心した。自然に脱力したフォームながらぐいぐいピッチが上がる走法には大器の予感しかなかった。
(蛇足だが、安藤友香は不破や鈴木の走りを観ていただろうか? 脱力するのに忍者走りはいらない。安藤のフォームには硬直しか感じない。)