砂漠に水を撒く 2 ワンチームではなかった日本軍
死後に英霊とおだて上げるほどには、日本軍は兵士を大切にしなかった。
日本軍は人類史上まれにみる特異な軍隊だった。今でならヒューマンリソースと呼ばれるであろう兵を消耗品として扱った。上官はシゴキやイジメで日常的に兵を毀損し(軍靴でビンタし、角材で尻を殴打した)、作戦に当たっては異様に兵站を軽視した(無謀の代名詞インパール作戦、アッツ島の玉砕、等々)。兵站の代わりは神風と大和魂だった。行きついた先が特攻作戦であり戦艦大和の撃沈必至の特攻出撃だった。
先の大戦の軍人軍属の死者数は230万人とされるが、その過半数の死因は戦闘死ではなく餓死や病死だった!!
これらの元凶(そのすべてとは言わずとも)は『軍人勅諭』(1882年、ネットで全文を読むことができる)にあった。頂点に無謬の天皇(朕)があって、以下上官への絶対服従を説く。軍である以上どこの国のそれも大同小異であろうが、そこには日本ならではの戦慄の戒めがあった。曰く、
「…死ハ鴻毛ヨリモ軽シ」と。
ブラック企業のブラックマニュアルも真っ青のこの戦慄の規定は、比喩ではなく、文字通りに実行されたのである。
ろくな兵站線を築くこともなく3万人の死者を出したインパール作戦については他にゆずるとして、アッツ島の玉砕(「玉砕」という言葉の源となった)について書く。この島の守備隊は米軍の猛攻にあって必死の防戦に追われ、ついに全滅した。事後公報としては、「一切の援助援軍も求めず、守備隊はあっぱれな敢闘の末に玉砕!」と美談化され、銃後では号外がおどった。
実際のところ隊長は、当然のことながら、事前に本隊(参謀本部?)に武器弾薬の補給、援軍の派遣要請を打電していた。しかし、本隊側はこれに応えることなく守備隊を全滅に追い込んだだけでなく、援軍要請の事実そのものを隠蔽したのだった。守備隊は見捨てられ、詐術によって美談化された。死の実相によらず、追いこんだ者も追い込まれた者も、ひとしなみに英霊と呼ぶ靖国論理のさきがけである。
かくも兵の命は軽かったのである。
美談化といえば、もっとも頻繁に対象となったのが零戦特攻だろう。戦後、反戦思想のアイコンとなった『レイテ戦記』の著者大岡昇平でさえその一端をになってしまった。曰く、「憎むべき特攻作戦。しかしそんな理不尽な極限状況にあっても最期まで意識を保ち任務を完遂した特攻隊員の精神力を、同じ日本人として誇りに思う」と。(引用は記憶によるもので一言一句正確ではない)
筆者も初読時はなるほどと思ったが、後年、「特攻隊員の選抜は志願」が嘘と知って愕然としたのだった。戦況必敗のなか軍部が考え出した人類史上珍無類の特攻作戦。将官らが考え出したのが選抜指名ではなく「志願を募る」だったのは、責任放棄であり、よほどうしろめたかったと見える。老獪というか、悪魔の所業というか…!
筆者は別稿で、ハンコ社会日本の「「任意」という名の強制」について書いたが、あれは特攻作戦における「「志願」という名の強制」の遠い残響である。
大岡の言葉にもう少しこだわると、零戦特攻はじつは百発百中ではなかった。敵艦からの対空射撃での撃墜はもちろん、傷ましいことにためらいによる誤爆や、逡巡のあいだに片道分の燃料が尽きて墜落したものも多くあったのである。思うに若者らの多くは呪詛のことばを吐いて死んでいったのではないか。(お国のため!?、とんでもない……)
再び問う。特攻を命じた者と命じられた者、両者をひとしなみに英霊と呼ぶことにどんな意味があるか?
我が子を勝手に祀るのを止めてもらいたい、との家族の要求を断固固辞する靖国神社の神職らに問いたい。自分の子がいじめに遭って自殺したとする。後年学校が、我が子と加害者を同じ慰霊碑に祀り、今日の学校の繁栄はここに祀られた英霊たちのおかげである、などと宣したらどう思うのか? はいはいと納得できるのか?
(戦艦大和の出撃については次稿にて)