見出し画像

砂漠に水を撒く 4  「東京裁判批判」批判 


問:また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。

ヒロヒト:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんからそういう問題についてはお答えできかねます。

問:原子爆弾投下の事実を、陛下はどうかお受け止めになりましたのでしょうか。

ヒロヒト:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています。


上記は1975.10.31に行われた昭和天皇裕仁(ヒロヒト)記者会見の摘録である。付記したいことがいくつか;

〇原爆が投下されたのは広島だけではなかった
〇「やむをえない」どころか、あなたが早い決断をしていれば、新型爆弾は投下されずに済んだ
〇この会見後、質疑はおろか天皇の戦争責任を公けに問う声は絶えてしまった。筆者はこれを日本の政治的かつ社会的かつ学問的かつ教育的サボタージュと考えるが、いまの若い人たちは上の質疑を読んでどんな感想を抱くのだろうか、はかない興味がある


明治天皇が下賜した『軍人勅諭』については別稿で触れたが、上官への絶対服従を説くこの『勅諭』の頂点には天皇があった。戦後の東京裁判(狭義にはA級戦犯裁判いわゆる極東軍事裁判のみを指すが…)で有罪とされ死刑を宣告された数は1000人弱(cf.『私は貝になりたい』)。その頂点にあった人物に責任がなかったとするのは、はいそうですかと納得がいくものではない。

東京裁判は戦勝国による一方的恣意的裁判であるとの批判があることは知っている(元シュショーAもさかんに主張していた)。国際法上の是非を論ずる能力はないが、素朴な疑問がある。GHQの政治的日和見(免責の決断)により、東京裁判が天皇裕仁の召還をしなかったことを批判する声を聞かないのはなぜか? さらには、事後でもいい、東京裁判批判と同じ熱量で、みずからが納得のいく責任究明の場、裁きの場を設けなかったのはなぜか???

もちろん戦争責任を負うべきは天皇裕仁のみではないが、もしほかを追及しだしたら、いずれ上御一人に及ぶだろうという慮りや忖度が働いたと思われる。実際、東条英機が法廷で「このたびの戦争で、重要事項の決定にあたり陛下の裁可なしに行われたものはない」と証言して周囲をあわてさせた。 その夜、拘置所には弁護人や要人らが押し寄せ、東条に堅く口止めをしたという! 真実を曲げてでも上御一人を守る、という日本人の情熱は、近くはモリカケ問題でも矮小化されたかたちで、発揮されたところである。

かくて、ダンマリを決め込んだ戦後日本。同胞320万の死はおろか、国家存亡の危機も、原爆投下も、何もなかったかのように、その前後をシームレスに昭和と呼ぶ無神経! (では改元すればよかったか、というとそうでもない。生身の人間の寿命にリンクする元号制度は自然になくなるはず(べき)であった)

どころか、敗戦処理内閣首班東久邇宮は国民に向けて一億総懺悔を説き、謝罪を説いたのだった。前者はとくに有名で、幼くして知っていたが、長じて、これらが天皇裕仁へ向けられた懺悔であり謝罪であると知って唖然としたものだ。


天皇裕仁の戦争責任問題については大日本帝国憲法の権限規定を持ち出してむずかしい議論をする人(たとえば、司馬遼太郎の免責論)もいるが、それについていけない粗雑な頭の老人は、1945年の事象を時系列に並べるだけで十分、と思っている。

〇戦況悪化の一途だった1945年2月、近衛文麿は吉田茂らとともに戦争の早期終結を唱える上奏文を天皇裕仁に提出。裕仁は「もう一度戦果をあげてから」とこれを却下。この逸機のあと民間人の死者数が10万単位で激増する

〇列島主要都市への爆撃が激化し(古井由吉は東京で焼け出され、疎開先でも爆撃に遭う)、3月10日から11日にかけての東京大空襲では10万を超える市民が焼け死んだ(cf.堀田善衞『方丈記私記』)

〇6月、沖縄で凄惨な地上戦があり(cf.拙稿「独立国沖縄に行きたい」)、20万人ちかい死者が出た

〇8月、広島長崎に原爆が投下され30万人以上が犠牲となった。7月26日にはポツダム宣言が発せられており、受諾を決断する時間は十分にあった。これをしも「やむをえないこと」と言えるかどうか… (原爆投下を人道に対する罪として糾弾することに筆者も同意するが、同じ熱心さで上記の逸機についても公けに議論すべきであると思う。それがないから広島長崎の反核運動は影が薄く弱々しく見える。足下が汚染されているのだ。アメリカの核の傘のもとにあること、地震の巣の上に52基もの原発を建てたことをふくめて)

〇零戦、回天などの特攻作戦、戦艦大和の特攻出撃は言うまでもない。東条の証言通り、これらも裕仁が裁可したのだとしたら…

〇無条件降伏後2年間極寒のシベリアに抑留され、強制労働に服し、そこで斃れた兵らがいた。からくも生還した香月泰男は後年「シベリア・シリーズ」を描いて鎮魂した。なかには「朕」と題された作品もある

〇最側近だった木戸内相が考える、天皇裕仁の名誉ある身の処し方は最低限「退位」であったという! ちなみに、終始早期の戦争終結を模索した近衛文麿はA級戦犯とされ、毒をあおって自決した


いいなと思ったら応援しよう!