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砂漠に水を撒く 3  戦艦大和を特攻出撃させたわけ

まことに兵の命は軽かった。

イジメの被害者やパワハラの被害者にはかろうじて不登校、転校、転職等の逃げ道がある。兵士らにそれはなかった。「お国のために」が噴飯ものなのは、かれらにとって世界とは生殺与奪の権限をもつ上官と飢餓がすべてであって、国の行く末を考える余裕は1ミリもなかったろう。日常的なシゴキと理不尽な作戦命令に翻弄されながら、あげくは木の根草の根をかじりながら露命をつないだ兵が死に臨んで「心が山のように静か」だったとはとても思えない。

靖国神社に参拝を続ける能天気な政治屋たちには死んだ兵らの呪いの声が聞こえてこないのだろうか???

さて戦艦大和の出撃のことである。1945年4月当時日本の暗号通信は米国に解読されていて、日本近海での主要艦船は一発百中状態だった。伊藤第二艦隊司令長官や有賀艦長は直前まで大和の出撃に反対した。戦況必敗のなか有為な若者たちを無駄死にさせる作戦には承服できなかったのである。

にもかかわらず、大和が出撃した裏には何があったのか? 後年その理由を知って愕然、開いた口が塞がらなかった。

ここで少し余談を書く。陸軍と海軍の仲の悪さは明治以来帝国軍隊の宿痾であり伝統であった。日清日露のころ軍隊では脚気が猖獗した。時の海軍軍医総監髙木兼寛は栄養(ビタミンB1)欠乏説を採り、被害を最小限に食い止めたが、陸軍は細菌による感染症の立場を採り被害を広げてしまう。時の陸軍軍医総監森林太郎は、あろうことか髙木の栄養欠乏説を愚弄し、もって陸軍の兵三万近くを犠牲にしたのである。科学的知見さえ共有できない軍隊とは一体何なのか!?

この一大事をもってしても、この国が森林太郎=鴎外を文豪と呼ぶのを妨げることはなかった。通念という惰性の根深さを思う。作家の人となり、性情、行動と作品はまったくの別物であり、作品の評価に前者を加味してはならない、との主張は知っているが、さすがに筆者はその後鴎外作品を手にする気は起きない…

こうして、日本軍はタテにもヨコにもワンチームというにはほど遠かった。


で、戦艦大和の特攻出撃である。最終的に伊藤司令官や有馬艦長を押し切った海軍軍令部の論理とは何だったか。それは、端折って言えば「同じ負けるにしても、海軍の誇る最終兵器=戦艦大和を投入せずに負けたとあっては海軍の名折れであり、陛下や陸軍連中に合わせる顔がない」というもの。露骨に言えば、大和を無傷のままで終わらせるわけにはいかないから大和と一緒に全員死んでくれ、というアクロバットのような論理だった。結果、三千有余の若者らが海の藻屑と消えたのである!!


ふたたび、靖国神社に参拝する政治家らに問いたい。「あなたがたは政治家として同じ状況に置かれたとき、伊藤・有馬側に立つのか、海軍軍令部側に立つのか?」と。この実存的ともいえる問いを不問に付したまま参拝を続けるかれらの精神の闇、鈍感、能天気を思う。なんなら問いを続けることもできる。「最後の御前会議にワープしたとして、あなたがたは戦闘継続に投じたか、降伏に投じたか?」を。「英霊」という言葉はこれら究極の二択を無化し免責するジョーカーにすぎない。

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