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内発的動機付けが外発的動機づけに変わる時

2月18日の日経新聞で、「職場から考える創造性(3)「内発的」な動機づけが大切」という記事が掲載されました。同記事の一部を抜粋してみます。

~~皆さんは、「仕事に熱中して時がたつのも忘れた」という経験はないでしょうか。米ロチェスター大学のエドワード・デシ教授によれば、「見た目には何の報酬もないのに、その人がその行為そのものから喜びや満足を引き出し、その行為に従事している状態」のことを、内発的に動機づけられているといいます

行為そのものが面白くて内発的に動機づけられていたのに、報酬をもらえるようになると、そのために行為をする、つまり外発的な動機づけに切り替わってしまったのです。これを「過剰正当化仮説」といいますが、安易に評価や報酬を与えクリエイティビティーを高めようとするのは危険な考え方かもしれません。~~

どこで見聞きしたのか忘れましたが、次のようなエピソードを聞いたことがあります(古い記憶なので、正確性は保証しません)。

~~第二次大戦中に新たな土地に移り住んだユダヤ人がいた。彼は自分がユダヤ人だということを隠していた。当時ユダヤ人は迫害されていたため、自分がユダヤ人だということがわかると身が危険にさらされるかもしれないと思ったからだ。

しかし、ある時ちょっとしたきっかけで、近所の子供たちに自分がユダヤ人だということを知られてしまった。その日から子供たちは自分を見かけると、指さして「ユダヤ人、ユダヤ人!」とからかうようになった。周りの大人に知られると厄介だと考えた彼は、困った顔をしながら、「お願いだから」と、自分のことをユダヤ人だと言わないよう子供に頼んだ。しかし、それを見た子供は余計に面白がってますますからかうようになる。

どうすれば自分のことをユダヤ人だと言わないようになってくれるか。彼はあるアイデアを思いつき、一計を試みることにした。

その日も子供たちは彼を見つけると、「ユダヤ人、ユダヤ人!」と喜んでからかい始めた。それに対して、彼は子供たち全員に100円ずつ渡して(金額は適当なイメージ)こう言った。「自分のことをユダヤ人だと言ってくれてうれしいよ。これはご褒美。もっと言ってくれ」

これを見た子供たちはきょとんとした。困ったような顔をすると思っていたのに、喜んでくれて、しかも100円もくれたのだ。「えっ、100円もくれるの?」と言って、子供たちは喜びながら帰っていった。

次の日に子供たちは彼を見つけると、今まで以上に「ユダヤ人、ユダヤ人!!!」と叫びながら近づいてきた。そして、彼は「今日も自分のことをユダヤ人だと言ってくれてありがとう。うれしいよ。はいご褒美」と言って、50円ずつ渡した。子供たちは50円もらえて喜んだが、100円を期待していたために昨日ほどは喜ばなかった。

次の日に子供たちは彼を見つけると、「あっユダヤ人」と言いながら近づいてきた。そこには、昨日ほどの勢いはなかった。そして、彼はまたお礼を言い、ご褒美として10円ずつ渡した。子供たちは10円を受け取ったが、「なんだ、10円だけか、つまんない」と言って帰っていった。

その次の日に彼を見た子供たちは、「つまんない」と言って、もう彼のことを「ユダヤ人」と指さして言わなくなった。彼の一計は見事に的中したのである。その日以降、彼が困ることはもうなかった。~~

このエピソードは、冒頭の過剰正当化仮説に通じるものがあります。つまり、子どもたちはもともと主人公の人物をからかうこと自体に面白さを感じていて、その行為そのものに内発的に動機づけられていたわけです。しかし、100円という金銭的報酬をもらえたことをきっかけに、からかうことが外発的な動機づけに切り替わってしまったのです。

金額が減ったとはいえ、10円もらえているわけですから、何ももらえてなかったもともとの状態よりも、子供たちは得しています。しかし、内発的動機づけを失った子供たちは、それを取り戻すことができなかったわけです。

仕事を通してもらう報酬についても、同じことが言えるでしょう。私たちは、仕事に見合う対価をもらう必要があります。しかし、仕事の結果などに対して、不用意に金銭的報酬を意識させ、過剰正当化仮説が発動されてしまうと、内発的動機づけを削いでしまう結果になりかねません

私も仕事を通して、各社から社員の仕事への動機づけを高めようと、賞与での還元制度やインセンティブ制度の設計を進めたいというご相談を受けることがあります。そうした制度は有効に機能する可能性もありますが、そのうえで、それによって過剰正当化仮説に陥ることがないか、一考してみるとよいかもしれません。

<まとめ>
金銭的報酬の新たな認識は、内発的動機付けを失うきっかけになりえる。


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