月間致知8月号で、北海道日本ハムファイターズチーフ・ベースボール・オフィサー栗山英樹氏と、臨済宗円覚寺派管長横田南嶺氏の対談記事「さらに参ぜよ30年」を、読書仲間と読み合わせる機会がありました。
侍ジャパンを世界一に導いた当時に、栗山氏がご自身や選手とどのように向き合っていたのかを振り返りながらのお話は、たいへん示唆的で印象に残ります。
先日の投稿では「師資相承」について考えましたが、同テーマに通じる内容でもあります。
読み合わせではいろいろな意見交換がなされたのですが、その中からここでは2つ取り上げてみます。ひとつは、自惚れそうになる自分をメタ認知することの大切さです。
同記事の一部を抜粋してみます。
メタとはギリシア語で「高次の」という意味です。メタ認知とは、自分を俯瞰的に見て「自分の認知を認知する」ことを表します。自分の認知活動(知覚、記憶、思考など)を客観的に理解し、自分に対して評価や制御を行う能力を発揮した行動です。
横田氏の示唆は、「自惚れてダメになる落とし穴は誰にでもある」ということだと思いますが、栗山氏は自惚れそうになる自分をメタ認知しているように見受けられる、そこに同氏のすごさの一端がある、ということが、参加者間で話題になった次第です。
このことも踏まえて、参加者の間では、「自惚れていい人と、自惚れてはいけない人がいるのかもしれない」という話も出ました。自己肯定感が低くセルフイメージが低い人は、その局面が変わるまで自惚れさせることも必要かもしれない、というのがその理由です。そして、自己肯定感が高く実力もある人は、自惚れてはいけない。根拠や研究結果との関連付けはできていませんが、人材育成を考えるうえで的を射た本質なのかもしれません。
そして、自惚れそうになる自分をメタ認知できる能力や習慣は、独力で獲得するのも難しいのではないかと考えます。自分ひとりでは見えない面の自分があるからです。栗山氏の場合も、様々な書籍に学ぶだけではなく、臨済宗の横田氏に師事するなどによって、メタ認知の能力や習慣が磨かれていったのではないかと想像します。自分にとっての師匠を持つことの意義は、そこにもあるのだろうと考えます。
書籍からの学びも、人によって読み方は様々です。今回のような読書会に参加することで、同じ書籍でも自分では気が付かなかった視点や、別の読み方に触れることができます。「自分なりに書物を読んで、理解した気になった。(仮に本質を外した理解をしていたとしても)自分なりの読み方に自惚れる」ことから離れられる意義があるのだと感じます。
2つ目は、「無私」の姿勢の意義です。
同記事から一部抜粋してみます。
上記からは、「無私」の対義語は「私心」だと考えられそうです。
参加者の1人の発言が印象的でした。「自分としては、お客さまに対してがむしゃらでありたいと思っている。お客さまに対してがむしゃらであろうとした瞬間に、自分が消える。余計なことを考えなくなる。視点の軸を、自分から相手に移すことで、相手のためにがむしゃらになれる」
「自分が消える」というのは聞き慣れない言葉で、新鮮でした。その言葉が自然と出てくるほど、無私の姿勢が身についている方なのではないかと感じます。私などは、おそらくまだまだ改善の余地があるのだろうと振り返りました。
他方で、「相手と共に自分も豊かになる、WIN-WINの関係が否定されるものではなく、結果的に自分もWINしてよいはずだ。そのうえで、相手のWINから始めようとする姿勢が大切なのではないか。自分のWINから始めようとすると、無私ではなく私心になるのではなかろうか。相手がWINすれば、自ずと後から自分もWINになる」という意見もありました。これも、有効な視点ではないかと考えます。
自分をメタ認知する。無私になる。日常的に取り入れていきたいことだと思います。
<まとめ>
師匠をもつことで、自惚れそうになる自分をメタ認知する。