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師資相承を考える(3)

月間致知8月号で、北海道日本ハムファイターズチーフ・ベースボール・オフィサー栗山英樹氏と、臨済宗円覚寺派管長横田南嶺氏の対談記事「さらに参ぜよ30年」を、読書仲間と読み合わせる機会がありました。

侍ジャパンを世界一に導いた当時に、栗山氏がご自身や選手とどのように向き合っていたのかを振り返りながらのお話は、たいへん示唆的で印象に残ります。

先日の投稿では「師資相承」について考えましたが、同テーマに通じる内容でもあります。

読み合わせではいろいろな意見交換がなされたのですが、その中からここでは2つ取り上げてみます。ひとつは、自惚れそうになる自分をメタ認知することの大切さです。

同記事の一部を抜粋してみます。

栗山 先達の方々の本を読んでいると、「師匠を持ちなさい」ってよく書かれているじゃないですか。ちょうど7月号の特集テーマも「師資相承」でしたけど、僕は人生の中で本当に困った時に「これ、どう思いますか」と教えを乞こう方がどうしても必要だと思っています。

それで僕は勝手に横田管長をそういう存在にさせてもらっていて、この1年間、本当にいろんなことがあったんですけど、そのおかげで心を落ち着かせて普通に過ごすことができたなと感じます。

横田 WBC優勝後は各方面から引っ張りだこで、きっと生活が激変したでしょうから、どういう変化があったのか、お尋ねしたいと思っていました。そうしたら栗山監督の新刊『信じ切る力』の中にこう書かれていたんですね。

「WBCで優勝して、たくさんの人に好評価をもらって感じたのは、〝ああ、こうやって人はダメになるんだな〟という思いでした。それは痛いほど感じました」

いやぁこういう感性を持っているところが、栗山監督の素晴らしさだと感じ入りました。大概の人は持てはやされるとそれに呑まれてしまって、思い上がったり失敗したりしてしまいますからね。

栗山 本当に人生でこんなに褒められることってないので、これはちょっとおかしくなっちゃうなと感じましたし、何より勝ったのは選手たちの力です。

横田 「こうやって人はダメになる」という言葉で思い出したのは、私が管長になって最初の頃に先代管長から諭されたことです。管長になると人前で話をする機会が増えるんですね。構成を一所懸命に考え、準備をして、法話が終わると、聴衆がバーッと拍手をしてくれる。いい気持ちになるわけです。

でもある時、先代管長が「拍手は人をダメにする」と言ったんですね。「拍手されるたびにダメになると思え。手を叩かれるような話はまだまだだ。手を叩くことすら忘れて、思わずその手が合わさるような話をしなきゃいかん」って。その時は正直なところ「うるさいこと言うなぁ」と(笑)。

有り難いことにそうやって事あるごとに頭を抑えてくれていました。
明治時代の作家・斎藤緑雨という人の言葉に、「拍手喝采は人を愚かにする道なり」とあるんです。決して自惚ぼれずに、自分を律することはとても大事ですよね。~~

メタとはギリシア語で「高次の」という意味です。メタ認知とは、自分を俯瞰的に見て「自分の認知を認知する」ことを表します。自分の認知活動(知覚、記憶、思考など)を客観的に理解し、自分に対して評価や制御を行う能力を発揮した行動です。

横田氏の示唆は、「自惚れてダメになる落とし穴は誰にでもある」ということだと思いますが、栗山氏は自惚れそうになる自分をメタ認知しているように見受けられる、そこに同氏のすごさの一端がある、ということが、参加者間で話題になった次第です。

このことも踏まえて、参加者の間では、「自惚れていい人と、自惚れてはいけない人がいるのかもしれない」という話も出ました。自己肯定感が低くセルフイメージが低い人は、その局面が変わるまで自惚れさせることも必要かもしれない、というのがその理由です。そして、自己肯定感が高く実力もある人は、自惚れてはいけない。根拠や研究結果との関連付けはできていませんが、人材育成を考えるうえで的を射た本質なのかもしれません。

そして、自惚れそうになる自分をメタ認知できる能力や習慣は、独力で獲得するのも難しいのではないかと考えます。自分ひとりでは見えない面の自分があるからです。栗山氏の場合も、様々な書籍に学ぶだけではなく、臨済宗の横田氏に師事するなどによって、メタ認知の能力や習慣が磨かれていったのではないかと想像します。自分にとっての師匠を持つことの意義は、そこにもあるのだろうと考えます。

書籍からの学びも、人によって読み方は様々です。今回のような読書会に参加することで、同じ書籍でも自分では気が付かなかった視点や、別の読み方に触れることができます。「自分なりに書物を読んで、理解した気になった。(仮に本質を外した理解をしていたとしても)自分なりの読み方に自惚れる」ことから離れられる意義があるのだと感じます。

2つ目は、「無私」の姿勢の意義です。

同記事から一部抜粋してみます。

横田 栗山監督にお会いする前は野球と禅が一体どう関連するのであろうかと思っていましたけど、飛田穂洲という人の言葉に「野球は無私道」とあると聞いて、その時思い出しましたのが、白隠禅師の『遠羅天釜』という書物の中に出てくる話です。

お釈迦様がある時、一番弟子の迦葉菩薩に質問なされた。「どのような修行をすれば、大涅槃(悟り)に至ることができるか」と。すると迦葉菩薩は坐禅が大事だとか戒律を守ることが大事だとか、思いつく限り答えるけれども、お釈迦様はすべて許可なさらなかった。そこで迦葉菩薩が「では、一体何が必要ですか」とお尋ねすると、お釈迦様は「ただ無我の一法のみ、涅槃にかなうことを得たり」とお答えになった。つまり、私をなくすことだと。

そこで、ああ、なるほど。こういうところで野球の道と禅の道が通じてくるのかと。これは非常に大きな発見でございました。

栗山 僕が尊敬している稲盛和夫さんも「動機善なりや私心なかりしか」とおっしゃっていますが、魂が綺麗に磨かれた状態になっていると、物事がいい方向に進むような気がします。選手のために、チームのために、ファンのために、そういう自分以外の誰かのため、何かのためということを考えてやっていると、「私」が消えていく感覚があるんです。

横田 改めて振り返ると、WBC世界一の勝運を呼んだものは何だと感じられますか?

栗山 ひと言で言えば「無私」ですね。選手たち全員が自分を捨ててくれた、自分のことよりチームが勝つために何をするかに集中してくれたことだと思います。あれだけ能力の高い一流の選手なので当然プライドもある。でも、ずっと試合に使ってあげられない選手もいるわけです。その時に、普通は「俺を使えよ」「なんで出してもらえないんだ」みたいな気持ちが心の中で生まれますよね。

大会の途中から皆がそういう私心を消してくれて、ベンチにいてもとにかくチームが勝つために明るく声を出して盛り上げるとか、誰かが活躍すると心の底から喜んでくれましたし、そういう空気がやっぱりチームを引っ張って前に進めたという実感があります。

上記からは、「無私」の対義語は「私心」だと考えられそうです。

参加者の1人の発言が印象的でした。「自分としては、お客さまに対してがむしゃらでありたいと思っている。お客さまに対してがむしゃらであろうとした瞬間に、自分が消える。余計なことを考えなくなる。視点の軸を、自分から相手に移すことで、相手のためにがむしゃらになれる」

「自分が消える」というのは聞き慣れない言葉で、新鮮でした。その言葉が自然と出てくるほど、無私の姿勢が身についている方なのではないかと感じます。私などは、おそらくまだまだ改善の余地があるのだろうと振り返りました。

他方で、「相手と共に自分も豊かになる、WIN-WINの関係が否定されるものではなく、結果的に自分もWINしてよいはずだ。そのうえで、相手のWINから始めようとする姿勢が大切なのではないか。自分のWINから始めようとすると、無私ではなく私心になるのではなかろうか。相手がWINすれば、自ずと後から自分もWINになる」という意見もありました。これも、有効な視点ではないかと考えます。

自分をメタ認知する。無私になる。日常的に取り入れていきたいことだと思います。

<まとめ>
師匠をもつことで、自惚れそうになる自分をメタ認知する。

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