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「PdCa」になっていないか
2月1日の日経新聞で、「「失敗の本質」野中氏の遺産」というタイトルの記事が掲載されました。
先日お亡くなりになった一橋大学の野中郁次郎名誉教授の遺した資産は、とてつもなく大きいものです。限られた紙面でその全容を認識するには無理もあります。そのうえで同記事は、野中氏による示唆の中から、ビジネスパーソンが特に受け取るべきポイントが概観できるよう、うまく要約されている内容ではないかと感じます。
同記事の一部を抜粋してみます。
「空気の支配、縦割り組織、異質性の排除、不都合情報の隠蔽――。一言で言えば、成功体験への過剰適応だ。過去の成功から脱却できず、むしろ過度に適応しすぎて内外環境の変化に対応できない。それを表現した」
1月25日に亡くなった一橋大学の野中郁次郎名誉教授(知識経営論)は生前、今も読み継がれる著書「失敗の本質」(1984年、共著)についてこう語っていた。旧日本軍が失敗を重ねた真因を探った名著で、「失われた日本の30年」を考える上で必読の書ともいわれるようになった。
その後の著書「知識創造企業」(共著)や考案した経営メソッド「SECI(セキ)モデル」も、知らない企業経営者はもはやいまい。
晩年に提唱したのが「ヒューマナイジング・ストラテジー論」だ。論理分析が過多になった現代日本への警鐘を込め、「経営とは人の営為にほかならず、創造性の源泉である野性を解放、錬磨する人間くさい作業だ」と結論づけた。
日本企業の失われた30年の元凶は何か、と聞いて返ってきた答えがまた振るっていた。一般に、バブル崩壊後の日本の低迷は「雇用、設備、債務の3つの過剰」が原因だとされてきたが、野中氏は「プランニング(計画)、アナリシス(分析)、コンプライアンス(法令順守)の3つの過剰こそ真因」と強調した。
計画も分析もルールづくりも行きすぎると、それ自体が目的化し、経営の活力を損なってしまう、という意味だ。
さらに、PDCA(計画・実行・評価・改善)だ。日本企業は米統計学者ウィリアム・デミングの理論などを受け入れ、それを実践してきたが、野中氏は高度経済成長期には効果を発揮したものの、現在では「PdCa」になってしまった、と批判した(PdCaの言葉自体は社会学者、佐藤郁哉氏の説からの引用)。
Pの計画とCの評価ばかりが偏重され、dの実行とaの改善に手が回らない、ということだった。肝心の行動が軽視され、本質をつかんでやりぬくアニマルスピリットがそがれてしまう、と考えたのだろう。
要は、形から入り、魂を入れない日本企業の根本的体質への警鐘だ。では、どんな経営者が野中氏の心を打ったのかというと、やや古いがホンダ創業者の本田宗一郎氏がその一人だった。米ミシガン州にある「自動車殿堂」で見た1枚の写真がきっかけになった。
本田氏はサーキット場で地面に顔をつけ、エンジンの響く音から車が思い通りの性能に仕上がったのかを見極めようとしている。「これだ」と思ったという。人間には優れた暗黙知があり、それをどう組織が共有したらいいのか、の研究が始まった。生まれたのが、SECIモデルだった。
SECIモデルとは、個人に眠る暗黙知を集団で共有するプロセスのこと。さらに徹底した対話を経て暗黙知を言葉や論理による形式知に変換し、最終的には集団で獲得した知の実践を通じて個人の暗黙知をもう一段高めていく。PDCAとは違う、共同化→表出化→連結化→内面化(4つの頭文字でSECI)という流れの繰り返しだ。
ホンダは経営や商品開発について社員が徹底的に討論する「ワイガヤ」の伝統を持っており、それに近いらしい。お互いの理解を超えて関係性をつくるのはしんどく過酷で、さあやってみろといわれてできるものではない。それでも画期的な認知症治療薬を開発したエーザイや、復活を遂げたソニーグループ、日立製作所などの経営者が野中氏とイノベーションを取り戻すためのプロセス、組織論を巡って繰り返し議論してきた。そんな事実を知ると、野中理論の存在はやはり大きかったと感じざるを得ない。
惜しむらくは世界から見た日本企業の存在が小粒で、殻を破る兆しがなお感じられないことだ。野中氏にこの点も聞くと、「(株式時価総額が大きい)米テック企業と比べ、知の体系に差がある。われわれはなぜ存在するのか。存在目的を果たすのにどんな知の体系が必要かをイノベーティブな米企業の経営者は深く考え、構想できている」と語っていた。
実際に、組織活動が「PdCa」になってしまっていることは、(自戒も込めて)多いものです。
新年度を迎えるにあたって計画を立て、その計画を実行していくためには何が必要、こんなことが起こった場合にはこうしよう、そうした結果こういう1年後を目指す、というシナリオを考えた。しかし、実行が不十分で計画未達のアラートが鳴り続ける。期末になると「過ぎ去った過去を後ろ向きに振り返るより、前を向いて一新して臨もう」と、結果の総括がなされないまま新年度の決意表明に進み、また同じサイクルとなる。
ありがちな話です。
野中氏の指摘のように、プランニング(計画)、アナリシス(分析)、コンプライアンス(法令順守)が肥大化し、実行と改善が野ざらしになってしまっている状況が、そこには想像できます。
ある経営者様が、「報告を聞くだけで何も新たな進展がないような会議に、移動して出席しただけでも、忙しいと仕事をした気になってしまうので注意が必要」と言っていたのを思い出します。このことも、PdCaに通じます。
ポイントのひとつが、バランスではないでしょうか。
計画、分析、法令順守が不要なわけではありません。絶対に必要です。同記事で例に挙がっている、ホンダをはじめとした企業にも、計画、分析、法令順守は必ず存在し実践されているはずです。
不測の要素が多くて結果がどうなるかわからないことに対して、計画の詳細さを求めすぎる。意志決定までに必要な手続きが長すぎる。自組織が集中すべきコアの活動領域以外の領域を縮小させきれずにリソースを投入し続けているなど。そうした、付加価値を生まないか、生むとしてもかけたエネルギーに対してとても小さい効果しかない活動を思い切って圧縮し、かわりにSECIモデルの実現につながる対話のような活動に時間を充てる。これらが、計画、分析、法令順守を行いながらも目指すべき状態なのではないかと思います。
しかし、実際には、すぐには効果が出にくい、知の蓄積や体系化につながるような対話の時間が圧縮され、短期の業績を追求すべく、より頻繁に営業実績の確認と「詰め」を行うための報告会議を増やす。これも、ありがちな景色だと思います。短期の業績はもちろん大切ですが、長期の組織学習も大切です。
DやAは十分に行えているか。長期的に成長していき、より社会に貢献できる組織になっていくための活動を行えているか。リーダーをはじめとする組織のメンバーが、このあたりのバランスをよく認識する必要があるのだと思います。
そして、その前提として、「われわれはなぜ存在するのか」を明確にし、問い続けていくこと。PDCAもSECIも、その組織が何のために存在するかの目的があってこそだと言えます。同記事にある「人の営為による人間くさい作業」のために、企業が人材を集めて組織をなすには、人材を惹きつける存在目的の明確化が求められます。
これからの組織活動を考えるうえで、識者による、踏まえておくべき示唆が詰まった記事ではないか。そのように感じた次第です。
<本日の一言>
「PdCa」になっていないか、振り返ってみる。