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「開発」について考える

しばらく前から、書籍「会社という迷宮 経営者の眠れぬ夜のために」(石井 光太郎氏 著)をテーマにした読書会に参加しています。先日の回では、同書の中の「開発」というテーマ見出しが対象範囲でした。

同書から中略しながら、一部抜粋してみます。

「開発」は、経営の世界では最も多用、いや乱発されている、接尾語の一つであろう。

「商品(製品)開発」「研究開発」「技術開発」「事業開発」「人材開発」「システム開発」、場合によっては「市場(顧客)開発」「チャネル開発」「組織開発」というような概念まで飛び出してきて、ここまでくるといささか言葉の定義は難しくなるが、・・・いずれにしても経営者は、それだけ、まだ見えぬ事業の明日をそこに懸けているということである。「会社」にとって、「開発」の成否とその成果は、いつであっても、最大の関心事に違いない。それは、いわゆる開発型企業に限ったこと、ではない。

それもそのはずで、「会社」の持てる可能性を掘り起こし、知恵を結集し、奥義を尽くし、資源を総動員して、事業に新しい道を拓くという営みを「開発」だと定義すれば、それは「会社」の事業発展の原動力そのものであるということになる。その本質は、リスクを取って未知に挑む創造作業そのものに他ならない。「会社」とは、自ら信じる「価値」の実現に向けてリスクを取って事業に挑む存在なのだとすれば、「開発」こそは「会社」の本義であり、存在意義そのものであるともいえるだろう。

「開発」とは、「会社」のこうした事業活動の本質が、最も剥き出しに露わになる局面なのだ。本質、と言っているのは、これを抜け取ったら、もはや「会社」でなくなるという意味でもある。

言われてみれば、「開発」という言葉は、いろいろな言葉にくっついて頻発していることに気づきます。

参加者から、「開発」に相当する英語の「development」で考えてみると、その本質がわかりやすいのではないか、という問いかけがありました。

Gogen+のサイトでは、「development」について、「包ま(veloper)、ない(des-)、こと(-ment)、開くこと」が語源から分かる 最適な覚え方」と説明されています。この語源をもとに、読書会の中では「もともと備えているポテンシャルを解き放つこと」といった言語化もできるのではないか、という意見もありました。

「開発」についてそのように意味づけてみると、「○○開発」が何をすることなのか、見えやすくなるように感じます。例えば、「人材育成」という言葉がありながら、「人材開発」という言葉もある。わざわざ「人材開発」と呼んでやりたいことは何なのか。それは、各人材が持っている可能性を解き放って、無限大に広げる取り組みだ」とすれば、合点がいく気がします。

「事業開発」も「その事業の潜在的な可能性を解き放って、最大限の付加価値を実現する取り組み」、「組織開発」も「組織が最も生産的でメンバーも幸せな状態になるための、あらゆる制約を取っ払った、最大限の可能性を追求する一切合切の取り組み」のように捉えると、その概念に手触り感が出てくる感じです。

その「開発」について、同書では次のように続きます。

「開発」とは意志と論理とがぎりぎりでせめぎ合う、「会社」の意思決定の境界面での営為であるということである。未知と既知、可能と不可能など、会社がその本義として向き合わねばならぬ異界の境界面、と言い換えてもよい。論理的にどれだけ詰めようが、所詮確かなことはわかりようのない、神のみぞ成否を知る領域へと足を踏み入れるのが「開発」である。そこに、客観的な答えはない。境界面を越えて足を踏み入れる意志があるか否かである。その意味でここが、経営者が仕事をすべき土俵の、本丸とも言える。

「開発」への着想を生むのは、論理であるよりも、意志なのである。深い谷をなんとか跳躍しようとする意志が、「できそうにもないことをなんとかする」知恵をひねり出し、発想に灯をともす力の源となる。殻を破るようなアイディア(仮説)は、確実な論理の積み上げからは、生まれない。論理による検証は、そのあと、の話である。

「開発」の入り口から、担当者に向かって「よく調べろ」「よく検証しろ」と言っている経営者がいるとすれば、そもそも、やっていることが真逆だということだ。もし検証できる確実なことだけに取り組むのが、「会社」なのであれば、もともと、経営者など要らぬであろう。

「価値がある(と信じる)ものを売る」というその事業の信念が、知らぬ間に「売れるものが価値あるものである」という論理に転倒し、「売れるものをつくれ」という指示に堕したとき、「開発」は心棒を失い、ただ目に見える結果の数字で判断されるものとなり、その命を失う。「何をつくればいいんですか?」と問われれば、「売れるものだ」と答えるよりない。

参加者からこのことに関連して、経営学者ドラッカー氏の言葉を紹介しながら、「仮説は、事実やデータ集めから始めるのではなく、意見、すなわち意志から始めなさい。データは仮説を裏付けることのできる都合のよいものがいくらでも出てくるから、という示唆だろう」という指摘がありました。改めて、『ドラッカー名著集1 経営者の条件』では、次のようにあります。(一部抜粋)

「意思決定についての文献のほとんどが、まず事実を探せという。だが、成果をあげる者は事実からはスタートできないことを知っている。誰もがまず自分の意見からスタートする。しかし、意見は未検証の仮説にすぎず、したがって現実に検証されなければならない」

(事実ベースで検証される必要があるものの)順序が、事実探し→仮説→自社の結論になってしまうと、そこには意志が入り込まない結果になるというわけです。また、そもそも確実に証明される事実に則った意思決定、アクションに終始するのであれば、そこには何の新規性もないことになります。成功するエビデンスが揃ったものであれば、既にどこかで実践されつくしているはずだからです。

それを自分が身を置く組織にもってきたところで、環境に合うかわかりませんし、合ったとしても現状を大きく変える効果につながるのかは不明で、自組織の何かの「開発」になるのかは大いに疑問となります。

そして、開発という機能自体を外部化するのも、売るために開発するという関係性にすり替わるのも、本来ではないということです。

開発について、
・ポテンシャルを解き放つこと
・成否はわからない中で、意志として取り組むもの
・それに懸けて粘り抜くもの
・事実ではなく意見から始めるもの

のように捉えると、向き合い方が定まってくると思います。

<まとめ>
開発は、事実ではなく意見から始める。

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