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師資相承を考える

月間致知7月号に「師資相承」(ししそうしょう、または、ししそうじょう)というタイトルの記事が掲載されました。広辞苑によると、師資相承とは師から弟子へと道を次代に伝えていくことで、分野を問わないそうです。

同記事の一部を抜粋してみます。

あらゆる学問・道・文化・伝統は、師弟の相承によって伝えられてきた。人類の歴史は師資相承の歴史といっても過言ではない。

東洋教学には師と弟子が道を相承していく上で大事な心得を説いた言葉が多い。王陽明は「滴骨血(てきこつけつ)」と言っている。

師が己の血を弟子の骨に注ぎ込む。弟子はその血を一滴もこぼさないように受け取る。心血を心骨に注ぐ。そのようにして教えの伝授はなされる、ということである。

仏教には「瀉瓶(しゃびょう)」という言葉がある。瀉は注ぐの意。瓶はビンのこと。師は自分のうちに蓄えてきたものを一滴も余さず弟子の中に注ぎ移す。弟子もまた一滴も漏らすまいと必死に受け止める。このような師と弟子の火花を散らすような真剣勝負の呼吸があって初めて道の相承は成る、ということを示している。

伝えんとする師の熱量と受け止めんとする弟子の熱量が相対峙していなければ、成り立つ世界ではない。

師資相承と言えば、本誌には思い浮かぶ人が2人いる。1人は平岩外四氏である。東京電力の社長、会長から経団連の会長を務められた。

平岩氏は秘書課長時代、当時社長だった木川田一隆氏に呼ばれ社長室に入り、木川田社長の顔を見た瞬間、社長が何の件で自分を呼んだのかが分かった、と言われている。四六時中、社長の置かれている状況に思いを馳せ、社長と心を一つにしていたことが、それを可能にしたのだろう。そして、その姿勢の持続がそのまま、平岩氏の経営者としての視点、見識、実力を養成していく基盤となった、と思われる。

もう一人は円覚寺の横田南嶺管長である。

横田管長は先代管長の足立大進老師に約30年間仕えた。侍者として旅にもよく随行した。旅館では同じ部屋で宿泊させてもらうことも度々だった。そんな時、老師より遅く起きては侍者の務めができない。といって、老師より先に起きては老師の眠りを妨げてしまう。そこでどうしたか。目が覚めても起き出さず、老師が目覚めるのを布団の中でじっと待つのである。そして、老師が起きられた瞬間に起き、挨拶、寝具の片づけ、お茶の仕度と動くのだ。

ホテルで別室に宿泊する時には、さらに気を遣った。老師の眠る部屋に隣室でひたすら神経を集中し、目覚めの気配を察すると、すぐさま用事を足しに向かう。

「そのような機微を察することが大切でした」と横田管長は話されていた。先代管長を尊敬し、先代管長に徹底して仕えきる。30年に及ぶその繰り返しの中で、禅師家(しけ)としての相承は為されたのだろう。

上智大学名誉教授だった渡部昇一氏もまた、師を大事にした人だった。その言葉がある。

「人は心底尊敬した人物から知らず知らずのうちに多くのものを学ぶ。学生でも偉い先生を心から尊敬している者は器量がどんどん大きくなる。しかし、先生を批判したり表面的に奉つっているだけとなると、成長が止まる」

師弟関係においては、教えんとする者の姿勢より学ばんとする者の姿勢にすべてがかかっている、と言えるのかもしれない。

哲学者森信三師は、人間を形成する要素として3つを挙げている。1つは「先天的素質」、2つは「逆境による試練」、3つは「師匠運」。人格を形成するには師匠運がもっとも大事であり、どういう師匠に出会うかで先の2つも影響されると述べ、こう結ばれている。

「尊敬する人がいなくなった時、その人の進歩は止まる。尊敬する対象が年とともにはっきりするようでなければ、真の大成は期しがたい」

『森信三 一日一語』より言葉を2つ。

「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に──」「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁を生ずるに到いたらずと知るべし」

人間を形成する要素として師匠運がもっとも大事であるということ。そして、尊敬する人がいなくなった時その人の進歩は止まり、尊敬する対象が年とともにはっきりするようであるべき。個人的には、とても印象に残った言葉です。

そのうえで、それは「運」というわけです。

ならば、恵まれた人は師匠に出会って人間として大成でき、恵まれていない人はそうならない、自分ではどうしようもないもの、ということなのかというと、そうではないと考えます。

「内に求める心なくんば~」からも、ここで言う「運」とは、「宿命」と「運命」でいうところの、「運命」で切り開いていくことのほうを指しているのではないかと、考えるためです。

宿命:命が宿る
運命:命を運ぶ

何に命が宿っているのかは、生まれた時に決まっていて、直接変えようがない。一方で、その宿っている命をどのように運ぶかは、いくらでも変えようがあるという意味合いです。命を運ぶにあたっては宿命のせいにしない、「こうなりたい」と思ったら自分の中に宿っている命を運んで実現すればよい、ということです。

つまりは、人格を形成する、自分にとってのよき師匠は、ただ待っていれば現れるというものではない。自分の人生の使命を模索しながら、目の前に開けた道を信じて大事にし、わき目を振らず進んでいくうちに、道の途中で必然的に出会うことのできる人物だというのが、記事中の識者による示唆なのだろうと思います。

キャリア開発の分野と照らし合わせると、「計画的偶発性理論」のことが頭に浮かびます。

これは、人のキャリアの8割は、「偶発」的な出来事、つまりは偶然が決めるとされているものです。よい偶然に出合うために、あまり先のことばかり考えないで、今をしっかり生きよう、行動しよう、そうすればあたかも計画されていたかのようによい偶然に出会い、キャリアが動き出していくというものです。

そして、よい偶然を呼び込みやすい行動特性として5つ、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心が大切だとされています。これらを発揮し続けると、結果として計画されたように、偶発的に師に出会うことができる、と言っているように思います。

私も、自分にとって師匠と呼ぶべきだろうと思う人との出会いがありますが、例えばそのうち1人は、引き合わせてくれたのが共通の知人で、今振り返ってみるとたいへん偶発的なものです。偶然ではあるものの、同知人との付き合いを大切にしてきたことで、発生した偶然なのだろうと感じます。

そのうえで、「滴骨血(てきこつけつ)」「瀉瓶(しゃびょう)」のごとく、その人物の一挙手一投足まで目を凝らして耳をそばだてて学び、受け取れるものをすべて受け取るような向き合い方をしているかというと、できていないのではないかという振り返りをした次第です。

同記事の侍者のようなレベルで実践するのは環境的にも無理がありますが、、少なくとももっと偶然の出会いに感謝し、自分なりに「師資相承」に取り組んでいると言えるレベルの学びの実践をしたいと思います。

師匠にべったりと張り付きその背中から学ぶ、といったOJTや人材育成の考え方・やり方は、時代の要請もあって各社で退潮の傾向にありますが、双方が認め合うならそれもありで、そのプロセスだからこそ得られる何かがあるのかもしれません。

<まとめ>
師が蓄えてきたものを、一滴も漏らすまいと必死に受け止める。

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