鬼滅の刃 あまり注目されない設定を 勝手に解釈する
(オセロ盤に見えたのは私だけ?)
作者がそのことを本当に意識して作っていたのかどうかわからないけれど、この作品を見ていて、ちょっと不思議に思ったことがいくつかある。
どうして時代を大正にしたのか
私も、鬼滅は好きなんだけれども、アニメから入ったので、当初、これは江戸時代の話だと思っていた。アニメの最初の部分では、舞台がほとんど山の中なので、街場の風俗がわからないというのもあるが、帯刀した剣士が出てくるのだから、当然江戸時代。だが、炭治郎にしても、ほかの剣士にしても、武家ではない人間が多いことから、幕末というイメージだった。もしくは明治初期。
この時代なら、武家に生まれなくても、武士になることが身近になり、軍人になることで帯刀する事も許された。
ところが、無惨と炭治郎が遭遇する街場のシーンになって、始めて大正時代だとわかった。
不思議だったのは、まずここ。
大正時代だと、帯刀した少年が闊歩するのはかなり難しいはず。風俗的にもあそこまで武士の風体を好むような時代ではなくなっていたはず。炭治郎が暮らしていた山間の村などでは、まだそんな風俗が残っていたかもしれないが、街場は既に大正デモクラシーの時代だ。
鬼滅という行為にしても、江戸時代ならファンタジーとして描きやすいと思うが、大正時代では、ファンタジーのあり方も違ってきている。現代で吸血鬼の話を書くことは出来ようが、それは「ヘルシング」みたいな設定ならまだしも、鬼滅はやはり、江戸風情の残る「剣士」の話だ。どちらかと言えば、「魔界転生」の方が近いような話だ。
あえて大正時代にした意味がどこにあるのかと、首をかしげた。
そこで考えてみると、鬼滅の設定と、本当の大正時代には、面白い共通点がある事に気づいた。
大正という時代の持つ意味
デモクラシーを作った庶民は、前世代から生き続ける鬼を払拭しようとしている
私も大正時代に生きていたわけではないが、知識によって知っている大正時代は、日本が江戸の「日本純粋培養」の時代から、門戸を世界に広げ、多くの知識や風俗が、一般の人にも広く触れるようになって、文明が開化したまさにその時代だ。
大正デモクラシーといわれる、西洋的な哲学に感化され他時代であり、封建的な時代から、民主的な時代へと変化していった時代。特にそれが、一部の特権階級の知識人の中で起こっていたのではなく、庶民の生活の中に広がっていった時代。
西洋におけるルネサンス期がそうであったように、それ以前の中世において、庶民を弾圧していた、まがまがしい封建制度や、宗教に、猛然と戦いを挑んでいく人間の熱を感じる時代ともいえるだろう。
鬼という人間を食らう、圧倒的な重圧に、人の身でありながら、あらがう剣士たちの姿は、実は、大正という時代の空気と似ているのかもしれない。
実際には、時代も、鬼も、圧倒的に強いので、闘う剣士は皆傷つき、命を落としたりするわけだが、それでも志は受け継がれ、ついに炭治郎たちが登場するわけだ。最後には古い時代から脈々と生き続けた鬼を(時代)を滅しようとする。
大正という時代を率いる当主は、病弱で短命
産屋敷耀哉は鬼滅隊の当主。代々短命の家系にうまれ、物語でも既に病が進行し、衰弱している。
実は、大正時代の当主といえば、日本の場合それは天皇なのだが、大正天皇は、ご存じのように短命だった。生まれつき病弱であったと言われ、大正時代の終わりには病弱のため公務を摂政である昭和天皇に任せ、40代で崩御している。
もちろん産屋敷耀哉と大正天皇の人物像に共通点を探してもほとんどないだろう。
だが、物語の中の「見立て」とは、特徴的なイメージを重ね合わせることにより、特定の意味を持たせることである。(耀哉と大正天皇がよく似ている人物かどうかではなく、2人の特徴的なイメージの重なりによって、物語の裏側をあらわそうとしているという事)
ここでは、天皇家という特別な一族が何の暗喩としてイメージされているかという事になる。
それは特殊能力は遺伝によって継承されるという理である
つまり大正天皇を産屋敷耀哉と見立てるなら、逆説的に鬼滅で描かれる産屋敷耀哉の能力は、遺伝によって継承された力という見立てが成立する。
それは同時に、鬼舞辻無惨がなぜあれほどの力を有しているかもまた、遺伝による継承という見立てでもある。
鬼の中で鬼舞辻無惨だけが、鬼を作ることができ、ずば抜けた力を持っている。それは、彼が人間であったとき、短命を憂いて、何かしらの治療によって鬼になったというだけでは説明がつかない。後天的要素なら、ほかの鬼にもそうあるはずで、しかし、珠世は唯一鬼舞辻無惨からの呪縛を逃れ、鬼としての気質も変わっているが、それでも鬼化することが出来た人間は愈史郎だけで、能力は無惨に劣る。
鬼は無惨の血を介して鬼になるのに、1人として無惨と同じ力は持ち得ない。血は量が多いほど力が強く継承されるようだが、ではその血が一番多い無惨がもっとも強いという解釈は成り立つ。しかしそれは逆説的には、その血を作り出す彼の遺伝こそが、力の源とも解釈できる。
そして無惨は耀哉と同じ一族である。同じ血を持っている人間である。
産屋敷耀哉のたぐいまれなる力は、つまりはその血によって継承されている。という解釈が成り立つ。
神話によれば、天皇家は神の末裔であり、神の血を引き継いでいる一族である。遺伝によりその力は継承されている。大正天皇の暗喩は、耀哉もまた、遠い祖先から特別の力を継承したこと、そして力とは遺伝によって継承されるという理を表している。
面白いのは、同じ血を持った無惨が、鬼になっている点である。
これは日本のみならず、あらゆる国の神話において、神と悪魔は常に同じ血を持っているという考えに共通している。
ギリシャ神話では、天の神と冥界の神は兄弟であるし、日本の神話では、イザナミ(後に冥界に人間を落とすと宣言)とイザナギ(地上に人を生み出すと宣言)は兄妹であるとも言われる。
イザナミとイザナギは、一般的には夫婦とされるため、これは近親婚とも言われる。神話ではだいたい近親婚が多く、それは結局、力を持つ存在は同じ血を持っているという理からすると、当たり前の事ともいえる。
日本における「病者」の意味
ところで、日本の芸術における表現の中には、特徴的なものとして「病者」の表現がある。死病、それも「遺伝病」を持っている人間は、「特殊な能力を持っている」者として描かれる事だ。
ここには2つの意味がある。
1つは、異形なものに、特別な力が宿る、という考え方。
例えば、日本の神話において、日本という国家の礎礎を作る経緯は、大国主命と少彦名命が諸国を回りながら国を形作っていくという物語に描かれているのだが、このとき大国主命は政治を、少彦名命は農耕を広めたとされる。
普通よく聞く神話では、少彦名命は、小人として描かれる。
外の国から草の船に乗って訪れ、最後は草の穂の跳ね返りにのって、国に帰っていったとされる。
この物語には2つのことが語られている。
1つは、農耕は海外からもたらされた技術であったということ。
もう一つは、それを伝えたのは、異形の人であったという事。
実は少彦名命は、小人どころか、「ヒルコ」つまり骨のない人であったという話もある。つまり奇形児だ。
人から見て、姿も、肉体能力も異形である人に、実は農耕を伝え、国を富ませるほどの知恵がある。身体に障害のある人に、実は常人には及びもつかない強い能力がある。これが何を意味するかと言えば、強い能力には、必ずその裏側に同じだけの欠落があるという考え方である。(逆に言えば、欠落はそれを補ってあまりある能力と一体であるという意味でもある)
さらに、「病者」表現で忘れてならないのは、この欠落は、必ず死病であり、遺伝病である事。
強い能力と一体となっている欠落が遺伝病であると言うことは、実は死病と一体となっている能力もまた、遺伝によって継承されると言う事を意味する。
既に述べた、天皇家との見立てと同じ事を表している。
では鬼滅ではそれをどう表現しているか
まず耀哉は代々短命の家系。つまり死病を遺伝している。
しかし耀哉は、鬼滅隊から敬愛され、それを統率する優れた能力を持っている。また鬼滅隊は代々、耀哉の一族が継承している。
つまり耀哉の能力もまた、遺伝によって受け継がれている。
鬼滅ではまずそれを、耀哉が煩っている病によって表している。
耀哉の病がなんであるか、はっきりと表された箇所はなかったと思うが、ある表現を見るとわかるところがある。それはまず耀哉の顔。目から上、額はただれたように表現されている。さらに耀哉は病のために今は目が見えない。
この2つの表現は、実はある病気の定番表現である。
つまり「らい病」である。今はハンセン病という方がわかりやすいだろうか。
ハンセン病は、かつて物語のアイテムとして描かれることが多かった病気
ハンセン病は、本来のハンセン病の物語だけでなく、物語の1つのアイテムとしてよく使われた病気だ。
実は、ハンセン病は遺伝病ではない。今では完治する病気だ。実際には、進行の遅い伝染病であり、伝染力が弱いため、一定の配慮をすれば、感染はまずしない。
ところがハンセン病は、長く、遺伝性の病気であると誤解されており、また治療法がなかった時代には、死病と思われていた。(その割に生き残った人が多かったように思うが)日本だけでなく、世界中でそう思われていた。
例えば、キリスト教の聖書の物語にも現れるし、「ベンハー」という映画を見ると、ベンハーの母と妹は、過酷な牢獄暮らしの間に、ハンセン病を煩い、病人ばかりが押し込められる谷に送られてしまう。しかしベンハーの願いを聞いた神が、2人の病気を癒やしてくれる。
この「ベンハー」の物語は、日本における「病者」の表現と似通っている。日本における「病者」は、遺伝によって、死病と高い能力を一体として受け継ぐ。しかしその能力によって民を救い、恩恵をもたらすと、神によって、死病を癒やされ、幸せをつかむ存在として描かれる。
ちなみに「ベンハー」においては、「病者」の表現は、ベンハーとその妹と母という複数の存在に割り振って描かれている。
ベンハーはたぐいまれな能力によって、苦難の末イスラエルの民を救い、神に奉仕する。しかしその血縁である母と妹は、死病に冒される。しかしベンハーの行いは、最後には神を信じることで、母と妹の病が癒やされるという奇跡を招く。
病気と能力を1人の人間ではなく、1つの家族に振り分けた表現になっているわけだ。
ハンセン病は、進行すると視力を失うときがある。(実際には、病気の症状の中で、目に障害が起こりやすい状態になるので、その結果視力を失うときがあると言うこと)これも、物語のアイテムとして定番の表現だ。
耀哉は病気の末期であり、目が見えない。
耀哉の描き方を見ると、これは一昔前の人なら、くどくど説明しなくても、「らい病」と考えるのがお約束だった。そしてらい病が物語のアイテムとして何を意味するかと言えば、遺伝的に「死病」とともに「強い力」を継承している事である。
らい病を物語で盛んに描いていた時代なら、耀哉にらい病というキーワードを持たせただけで、その暗喩は示せるだろう。しかし、らい病を描くことを避ける時代になって、(「病者」のキーワードとしてハンセン病を描くのは、さすがに不適切な時代になったから)暗喩としての意味合いが伝わらなくなったことで、もう一つの暗喩として「大正天皇」が必要になったのかもしれない。
炭治郎もまた同じである
炭治郎には、病気はない。健康で、病者ではない。
しかし、特別な力を有している。
この力がどこから来たかと言えば、彼の父から継承されているといえる。父は、神楽と耳飾りを炭治郎に託している。これは炭治郎に鬼滅の力を継承したことを暗喩している。
ところで、炭治郎の父は病弱である。だが、人並み外れた神楽を舞う。
ずば抜けた力と、死に至る病気。この2つを持ち合わせたのが炭治郎の父だ。ここに「病者」としての表現がある。
一方炭治郎は、「病者」ではない。だが禰豆子が「鬼」という病にかかり、人としての「死」を招いている。それによって禰豆子自身も、特別な力を手にするわけだが、この兄妹を1つの人間の裏と表として見れば、まさに「病者」の表現である。「鬼」は遺伝病ではないが、「病者」が2人にまたがって表現されているというのは、炭治郎の力が、遺伝によって継承されている暗喩であり、やがて神の祝福を得るだろうという暗喩である。
「病者」の表現を、複数の人に振り分けて描くのは、先に話した「ベンハー」も同じである。その意味では、「病者」の表現は、日本だけでなく、キリスト教の生きる世界でも共通しているのかもしれない。
最後に、大正時代という意味
鬼滅が大正時代を舞台にしたのは、大正天皇が暗喩する、遺伝的能力を表すため、というのが1つの説だ。
だがもう一つ、大正時代を舞台に選んだ、もっと直接的な意味があるだろう。
それは、大正時代が終われば、昭和になり、そして待っているのは第二次世界大戦だと言うこと。鬼という日本人を襲う存在が滅することになって、しかしその直後に、日本は列強から襲われ、蹂躙される事になる。
鬼から解き放たれた後に待っているのは、戦争という地獄。
おそらく、鬼滅隊の若者たちは、戦地に赴いただろうし、多くは死んでいっただろう。しかもそれは鬼を相手にではなく、人を相手にだ。
外国人を「鬼」として見たのは、その容姿の違いからで、昔から日本人はよく西洋人を「鬼」として描いているのだが、しかしそれは相手を知らないからであって、西洋人も、本当は1人の人間であり、愛する者がいて、それを失った悲しみがあって、そして今見知らぬ日本人を殺している。西洋人が日本人を殺すのは、やはり彼らもまた、日本人を知らないからで、そこに自分と同じ血が流れていることを知らないからだ。
炭治郎と鬼との戦いと同じだ。炭治郎は、毎回鬼を退治しながら、鬼の悲しみに触れた。
と考えれば、鬼滅がわざわざ大正時代を舞台にしたことには、意味があるだろう。
誰でも、歴史を知っているから、鬼を滅した後、若い剣士たちに何が待ち構えているか想像がつく。
次にくるのは戦争なのだ。それがどれだけ愚かで、悲劇であるか、鬼との争いをさんざん見てきた後なら、わかるはずだ。
もう一歩踏み込めば、西洋人も日本人も同じ人間で互いに殺し合うという構図は、西洋人の側から見れば、日本人は鬼に見えるかもしれない。ただ自分たちのために西洋人を殺し続ける日本人。なぜ日本人が自分たちに襲いかかるかわからなければ、それは鬼に襲われているのと同じだろう。
実際当時の西洋人の兵士は、日本人を人にあらず、鬼か悪魔のような存在として認識していた。これは、後にベトナム戦争の時に、アメリカでベトナム人を異質な生き物として描いていたことでもわかる。
おそらく鬼滅隊の剣士たちが戦場に行けば、人にあらぬ力で闘うだろうし、それはまさに鬼のように見えたに違いない。
鬼滅の物語は、実は戦争という争いを起こしている、人間と人間の話なのだと思えば、大正時代にこの物語が展開する意味がある。
おまけ スターウォーズとの関連
別に驚くほどの話ではない。
スターウォーズ、特にルーカスが作った物語に関しては、元ネタがある。
ルーカスは学生時代、ジョーゼフ=キャンベルという学者に習っていた。キャンベルは、世界でも有数の神話の研究家で、世界の神話における英雄の描かれ方においての共通点を発見した人だ。「千の顔を持つ英雄」という著書がある。
キャンベルが教えていたのは、英雄譚にまつわる授業だったと推察するが、これを聞いて感激したルーカスは、スターウォーズの元となる物語を考え出していた。
これはキャンベルの研究による、世界の神話に共通して現れる、英雄が、英雄になるまでの物語なのだが、要するにスターウォーズというのはそういう話なのである。
要約すると、
1.英雄は生まれ落ちた後、母によってすべての力を教えられ、訓練されて育つ。
2.しかし女性と出会うことでその教えを忘れ、躓く
3.英雄は父によって惑わされ、仲間を裏切り、父の治める地下の国へ連れて行かれる。
4.父は英雄を従え、いずれは自分の力、自分の国のすべてを継承させようとする。
5.しかし英雄は仲間の助けを得て目覚め、父を倒し、父の力と国を開放し、仲間に恩恵をもたらす。
こうして英雄はできあがるのである。
これはアナキン・スカイウォーカー の人生そのものです。
ちょっとわかりにくい点をかいつまんで説明すると、これも「見立て」を使った解釈をすると、アナキンの母とは、生みの母親ではなく、オビ=ワン(彼を育て、彼に力を授けた師)であり、父は、彼を最初に見いだして力を与えたクワイ=ガンであり、彼を最初から認めて、最終的には自分の世界に連れて行ってしまった ダース・シディアスでもある。クワイ=ガンとダース=シディアスが、2人で1つの人格の表と裏を表している。
アナキンは、パドメ(女)を愛するが、それが不幸にも彼が墜落するきっかけを作る。ダース・ベーダーになって、シディアスに仕えるが、結局ルークやレイアの助けを得ることで、真実に目覚め、シディアスを倒して、仲間に恩恵をもたらす。
ルークを主人公にした三部作でも、この構成は同じで、小さくまとめてあるだけだし、アナキンを中心に考えれば、全6作品でこの物語を描いている。
ルークのその後を描いた話でも、たぶん同じ構成が繰り返されているだけだろう。英雄が英雄となる物語は繰り返す。
鬼滅における炭治郎はどう描かれているか
炭治郎はいい子なので、わかりやすく仲間を裏切ったり、好きな人ができて墜落したりはしないのだが、既に述べたように、彼の力の源は、実は鬼滅隊と深く関わっていて(実際に鬼滅隊で訓練されたと言うこともあるが、彼の父は鬼滅隊の剣士と深い関わりがある)その鬼滅隊は、既に述べたように無惨と耀哉がつながっている。
これは炭治郎の父、耀哉、無惨という3人が、炭治郎の父としてのいくつもの面を表していると解釈できる。
そして、物語の最後で、無惨はついに炭治郎を取り込んで、自らの力を与えようとする。それは炭治郎に特別な力があるからだが、そこから炭治郎がいかにして脱するか、もしくは取り込まれてしまうのか。この辺の展開が、アナキンの物語に共通している。
私はこのあたりをまだ見ていないので、楽しみである。
古今東西を問わず、優れた物語は皆同じ顔をしている。
それを見たいと思っている。