第4歩「棺桶に入る時、私は」
(※2018年6月ハチモットで連載た記事の加筆修正版となります)
藤森さんの追っかけとして長野県へ移住し、空飛ぶ泥舟のWSで念願の藤森さんご本人にも会うことができた私。
やったぁ!移住してきてよかったね~。
実はその泥舟WSと同じ時期に、もう一つの大きな出来事があったのです。
今日は、そのお話。
WSに参加が決まったその頃・・・「骨髄バンクのドナー候補に選ばれた」とのお知らせがありました。
東京を離れる時に思いつきで登録を済ませていたのですが、すっかり忘れて、このタイミング・・・。
「あ、そうだった!」
少しでも人のお役にたてるのですから迷えません、ドナーになろう!
実際にドナーになる前にはいくつもの手順があります、面接・検査・採血・最終同意・・・。
詳細は覚えていませんが、こんなくらいあった様な気がします。
この期間の私は、WSに参加、ドナーになるためのステップ、WSに参加、ドナーになるための、WS、ドナー、W、ド、ド、ド~・・・。
と、仕事の合間合間にそれぞれをこなして過ごしていました。
どちらも順調に進んで、泥舟が完成!!
それから少し経った頃、いよいよ骨髄提供の手術が行われます。
さて、手術は全身麻酔ですから3日ほど入院が必要とのこと、
着替ぇ~、洗面用具ぅ~、タオルぅ~、歯ブラシぃ~、充電器ぃ~
藤森さんの本~、もう一冊いれとこか~。
と生活必需品(笑)をカバンにつめ、病院へと向かいます。
初めての入院、初めての手術、初めてずくしでしたが、病院スタッフの方やドナーコーディネイターさんによりどんどん事が進んでいきます。
そして入院2日目にはいよいよ手術となりました。
手術は無事に終わり、全身麻酔がきれ目がさめると・・・
身体には何本も管が繋がり、少し動くにも不自由で不快感がともないます。
普段の体のなんとありがたい事か!
手術が終わるまでドタバタで、ドナーになるという事の実感がないままでしたが、こうして手術が終わりゆっくりとベッドに寝ていると・・・。
患者さんの事を考えずにはいられません、
骨髄バンクでは、患者やドナーの情報がお互いに知らされず個人が特定できない様になっていて、少しの情報のみ事前におしえてもらえます。
私が骨髄を提供させてもらった患者さんは、関西地方に住む40代の男性・・・
40代なんて、まだまだこれからやりたい事もあるだろうに、家族もいるだろうし、子供さんも小さいかもしれない。
そんな人が生きる事にむかって必死で戦っている、ただ生きる事にむかって。
私が不便や不快を感じるそんな事よりも、何百倍も、何千倍も、もっと、もっと、想像もよらない様な大変な思いをされている。
そんな患者さんやご家族の事を思うと・・・。
胸の奥がきゅーっと縮まって、手術のどんな痛みよりも苦しかったのです。
どうか、どうか、良くなってください。
本当にそれだけ。
そして、そんな気持ちが少し落ち着いてくると。
私は不思議な感覚になっていったのです。
「私はどう?私を生きてる?」
当時の私は、
いつか宿的なものがやりたいけど・・・、手頃な物件あればいいけど・・・。
と、けど、けど、ばかり、私は妥協した夢をみていたのです。
違う違う、本当は。
と、初めてその2つが結びつきました。
「ポン!」(手を打つ音)
「パチ!」(目が開く音)
「ピカ!」(光が差し込む音)
私が棺桶に入る時、人生を振り返って何か後悔するとしたら、それは藤森旅館をやろうとしなかった事。
藤森建築で宿がしたい!
その時、病室の窓から見える遠くの空で、雷が光ったのをよく覚えています。
なんだか大いなる自然に祝福された様な、そんな気がして安心感で涙がこぼれました。
身体に繋がった管は順調に外され、経過も良好!
退院の日がやって来ました。
入院中に長くのばした髪が自分を(女を)縛っている様に感じられて、これはもう必要ない!と退院したその足でバッサリと髪を切りました。
スッキリ!
職場であり家でもある穂高養生園に帰ると、驚いたのは手術の心配をしてくれていたスタッフたち・・・
「髪、髪の毛?どうしたの!?」
「骨髄バンクと関係ないよ(笑)でも、生まれかわりました」
と、そんな訳でその後の私は迷う事なく、
“藤森旅館へつづく道”へとまっすぐにすすんで行くのです。
今、改めて思う事。
骨髄バンクでは患者さんがその後どうなったか、知らされないルールなのですが、お元気になられていると心から願っています。
この事がきっかけで、生きる事ってどんな事なのか初めて向き合う事ができました。
私には藤森旅館という目標がありますが、その前前提にある命や健康。
生きているという事がどんなに尊く、それだけでも充分と感じられる様になりました。
本当に有難うございます。
さて、次回は「嘘も方便、お茶会に行く」の巻き。
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