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24-09-24 遅延・リカバリ(感想文)


記入開始: 24-09-25 17:28

昨日より更に2時間20分、「昨日分の日記」を書くのが遅くなってしまった。
ただし単純に「日記を書くのが遅くなった」というよりは「昨日の最低限のタスクを消化するため、昨日をたった今、ジャストナウまで延長し続けた結果、昨日が終わるのが遅くなって、結果今やっと日記を書いている」というのが正しい。

いや、日記を書くのが遅くなった、でいい。

エッセイを読了した

こちらのエッセイ、やっと読み終えた。おおよそ3日ほどこの本にある程度のリソースを割いた形になる。

ニートに求められるものは何か、そう、日々のたゆまぬインプットとアウトプットである。
いや、嘘。
ニートは人生の夏休み。ボーナスタイム。スターマリオ状態。
と自分は考えているが故に、この期間・この時間を有効に活用したいのだ。
一種の自身への期待とプレッシャーが、ニートである現在の自分にはある。

あともう一点、ニート期間は仕事をやっているときのプレッシャーがない分、様々な筋力が衰えがちである、と思っている。
例えばコミュニケーション筋や事務処理筋、タスク消化筋やスケジュール管理筋…などである。
これらの筋力を衰えさせず、ある程度維持しておきたい。

インプット・アウトプットの話に戻す。
インプットの量・質を引き上げていきたいのだが、そうなるとインプットのスピードは一つ重要な要素になってくる。
よってもって、今後はより早く読み切る、ということに対して意識をしていきたいし、ノルマのようなものを設定してもいいかもしれない。

ただ一方で、これまでの人生の経験上、急いで読もうとして読んだ本から得た知識や感想は中々記憶として定着していない、という実感もある。
ので、無理のない範囲で、しっかりそのテキストを咀嚼して自身の血肉に落とし込む事自体は、蔑ろにしないようにしたい。

ピックアップ

エッセイを読んでいて、共感したこと・ハッとしたことなどをメモしておく。
これもまたアウトプット作業であり、自身の血肉への落とし込み作業の一つである。
ただし、ピックアップしだしたのが最終日だけなので、書籍全体の6/10程度はピックアップできていない。次回からはこの点は気をつける。

## 欠点
「僕、遅刻癖あるんで、集合時刻とかぜんぜん守れないんで、そこのところよろしくお願いします」  と、仕事相手に言われたらどう思うだろうか。はぁ? なんだこいつは。何を開き直ってるんだ。と、イラッとくるのではないか。  しかし、私はこういう行為を許容したい。「よくぞ言った!」と褒めたいくらいだ。その理由はシンプルで、遅刻する人間のほとんどは「私は遅刻します」と教えてくれないから。わざわざ言ってくれるだけ偉いと思う。あらかじめ遅刻することがわかっているなら対策を練ることができる。(以下略)

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.155). 株式会社コルク. Kindle 版.

コンサルやマネジメントっぽい仕事をしていると「現状を把握し、問題を抽出し、これを課題化し、改善していく」みたいなプロセスをよくやる。
というか、自分の場合はやりがちである。
ここでいう「改善」や「解決」は何も「克服」「解消」「問題それ自体を取り除く」だけではない。「理解」「共存」「回避」といったアプローチがあるはずだ。
ここでは「遅刻をしなくするにはどうするか」ではなく「遅刻ありきでどうするか」といった形での解決を論じている。

  • 遅刻するものはしょうがない

  • あらかじめ宣言しておいてくれるだけありがたい

こういった寛容性、自分はついつい忘れがちになってしまうが、大切な意識だ。確かに、無理なもんはしょうがない。無理をどうにかしようと無理をすると、何かしらの無理が生じる。

こういった寛容性に付いて以下のように論じられている。

嘘つきが出現しづらい環境づくりを目指したほうがよい。嘘つきを作らない仕組みは大事だ。人が嘘をつくのは追い詰められたときだ。人にプレッシャーをかけて罪人を作らないためにも「できない宣言」を許容する慣習があったほうがよい。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (pp.156-157). 株式会社コルク. Kindle 版.

たしかになぁ…
心理的安全性だ。


## 商売
大抵のゲームの勝利条件は2種類に分けられる。
①相対的な勝利
②絶対的な勝利
 このふたつ。  
①の代表例は、じゃんけんだ。グー・チョキ・パーの三つの手に強弱はないが、組み合わせで勝敗が決まる。  
②の代表例は、腕相撲だ。とにかく腕力というパラメーターが高いほうが相手の腕をねじ伏せる。
 格闘ゲームは①、②両方の要素を兼ね備えている。ガードしていると投げられる、投げようとすると殴られる、というようなじゃんけん要素に加え「とにかく正確に早くボタンを押せたほうがいい」という腕相撲的な要素もある。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (pp.160-161). 株式会社コルク. Kindle 版.

これは素直に「なるほどなぁ」と思った話。


## 性表現
「アクション映画」の文脈にどっぷり浸かっているので、暴力表現を現実的な意味での暴力として受け取っていないのだ。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.166). 株式会社コルク. Kindle 版.

引用は、オタク文化・オタク界隈に対する迫害(扱われるコンテンツが性的過ぎる、という指摘)に対する例え話である。

これを読んでいて自分も別の話が例えとして浮かんだ。
が、読んでいる時に浮かんでいた例えが何であったかはっきりと思い出せない…確か…食事のマナー…とかだったかな?

日本には麺類をすする文化(?)があり、これは日本人であればおおよそ認知・許容されている仕草である。
一方で海外、特に欧米ではこれはマナーとして良くないものとされている印象がある。
これは完全に「文脈依存」である。

自分が気づかないうちに、自分が把握できていない文脈に対して偉そうに批判・指摘をのたまわないよう、気をつけたい。


## 絶望
バスの中で死因の本と詐欺の本と精神疾患の本をローテーションして読んでいたらいつのまにか静岡。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.167). 株式会社コルク. Kindle 版.

これも単純に「なるほど」と思ったこと。
飽きたら一旦読むのをやめて別のことをする、というのはたまにするけど、なるほど、一つの時間の中で複数の本をローテーションする手があったか。
これは色々と良い効果がありそうな気がする。
ダラダラと1つの本を読み続けるより、以下のような恩恵が得られそう。

  • 常にその本に対して前向きに、鮮度の良い意識で向かい合える

  • その本に戻ってきたときに少しばかり前のページを読み返すことで、復習ができ、記憶の定着が図れる


## 茶番
おそらく、不幸であるということは哲学的には(哲学をするという行為においては)ある種の幸運なのだろう。というのは、社会と折り合いがつかない事実によって、この社会がいかにして形成されているか、という構造に思い至る機会を得るからだ。完璧に社会に適応できていると、それに気づくのは難しい。初発の「違和感」にたどり着かないからだ。疎外された場所から遠巻きに眺めることでのみ知ることができる全貌があるに違いない。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.180). 株式会社コルク. Kindle 版.

なんでも「中にいる」状態であるが故に、逆に中のことに対して、気付けないことはある。
自覚できないだけではなく「知った気になっている」というのが厄介な気がする。


## エモい
「安易にエモいと言わず、言葉を尽くして考えて」みたいな言説がちょっと苦手だ。深く考えない生き方を否定しているように感じるからかもしれない。いちいち考えを明晰に言語化するように努められる人々は一握りなので、非言語的にエモく愉快に生きられる人々をわざわざ否定する必要はないのでは、と思ってしまう。世界は言葉でできているんだけど、言葉が必要な人ばかりではない。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.191). 株式会社コルク. Kindle 版.

言葉にすること、言葉を尽くすことが苦手な人はたしかにいる。
一方で「それを許容して放置することは怠慢であり、努力不足である。自分勝手な怠け者である」と感じてしまう自分がいる。
特に仕事の場ではコミュニケーション能力が強く問われる。
そのため「必要なスキル。身につけるべきスキル」として言葉(表現力、語彙力)を捉えているため、そのような思想になりがちな自分がいる。

間違っていないようにも思うけど、一歩引いて、寛容に物事を捉える必要があるかもしれない。
苦手が故の、あえての「エモい」もまた一つの解決策なのかもしれない。


## 程度
 後輩に怒られる瞬間まで、自分のこの行動が人の気分を害するということを微塵も理解していなかったし、それを理解していなかった自分にもさらに驚いた。また、これまでの私がいろんなところで同じような過ちを生み出していたことも推測されて、怖くなった。

品田遊. キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々 (コルク) (p.192). 株式会社コルク. Kindle 版.

これは、後輩からもらったものを他人にあげようとして、後輩に叱られた、という話である。そして著者には、その行為に対する悪気・悪意は何もなく無自覚にそのような行いをしてしまっていた、という話である。

かつての自分の行いを思い出して「うわ~」っとなった。
心当たりがありすぎる。
少し違うが「感謝の気持ち」「お別れの挨拶」として、仲の良い友人であるはずの人からの贈り物に対して「興味がない。好みじゃない。」と受け取り拒否してしまうようなことが、昔の自分にはあった。
そこには悪意も悪気もなかった。

今でこそある程度の常識を獲得し、こういった「無自覚な失礼な行為」はほぼなくなった、と信じているが…たまに不安になる。
あと、昔の自分の行いを思い出して、やり場のないもどかしい感情がほとばしることは、よくある。

明日から

9月25日をだいぶ消化してしまった。
9月25日は一回スキップ。26日から改めてリズムを作っていきたい。
あ、昨日言っていた「実家に帰ったら、実家にあるものリストを整理する」のやつ、やっておこう。これ書いたらやる、ゼッタイ。

引き続き品田遊の小説を読んでみようか、もうちょっと実務的な内容のインプットをしていこうか。
あ、1本槍に拘る必要はないんだった。品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)のように、3つをローテーションするやつ、試してみよう。
明日なにやるかは明日決める。

記入終了: 24-09-25 18:15
所要時間:47分

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