なぜボカロ出身シンガーは文学と引かれ合うのか?(最初の問題提起として)
ちょっと個人的に気になったので、書いています。ただ、ずっと前からなんだろうなぁと思って考えていた分野ではありました。
近年、ますます衰退の激しい出版界隈。僕の家の近くの本屋も改装のために一時閉店し、再開したと思ったらコンビニに半分以上の面積を取られ、縮小していました。かなしいです。
文学がつまらなくなったとか、(僕も確かに尖った作品は少なくなっている気がします。)、オワコンとか言われていますが、しかし、一方で文学のエッセンスはまた別の方に向いているような気がしています。
その一つがボカロ出身の人たちが「文学」というものを志向しているということです。
例えばそもそも10年以上前のボカロの曲を見ていても、Sasakure.UKの曲「タイガーランペイジ」は中島敦『山月記』、Neruの「人間失格」は文字通り、太宰治『人間失格』また宮澤賢治を引用している作品も多いです。
他にもボカロPであるDECO*27は先日亡くなった詩人の谷川俊太郎と対談をしています。文学です。
どうやら、文学と音楽の相性はいいようです。
また、カゲロウプロジェクトで有名なじん(自然の敵P)も最初こそボカロ曲+動画でしたが、その後自身で小説を執筆するということを行っていました。ちなみにじん(自然の敵P)は星新一好きです。
またボカロ小説なるものも10年以上前から若者の間ではやっていました。そのあたりの仕事はライターの飯田一史さんの仕事に詳しいでしょう。(知り合いなので「さん」付けしています。)
上記は2013年の記事の転載ですが、当時の状況が精緻に書かれています。
さて、そんな中で、飯田さんは最近のボカロ小説についても書いています。
近年の動向として、「ボカロ小説」ではなく「ボカロP小説」になっていて、「キャラ」ではなく「アーティスト」に焦点が当たるようになっているとのことです。つまりは段々とキャラクターノベル的なものではなくなっているわけですね。
僕は先日『擬人化する人間—―脱人間主義的文学プログラム』という本を出版しました。文芸評論という今やあまり見向きのされにくいジャンルの本なのですが、その最後の章で米津玄師というアーティストを扱いました。彼はよく知られていると思いますが、もともとはボカロPの「ハチ」名義で活動を開始しています。そして僕の本では、彼の活動を文学の在り方として評価しました。多分、普通の文芸評論ではやらないと思いますが……。
さて、そんな米津玄師も宮澤賢治や多くの詩人を詩を参照しています。例えば「カンパネルラ」は宮澤賢治『銀河鉄道の夜』、「さよーなら、またいつか!」は種田山頭火の俳句、「毎日」は石川啄木の詩などですね。彼はボカロ出身者の系譜の中で文学の言葉を持ってきています。
そしてそれは米津玄師だけではありません。
例えば、米津玄師とも交流の深いボカロ出身のアーティストであるEveは「ナンセンス文学」や「廻廻奇譚」といったように文学や物語を連想させるような作品を作っています。
他にもヨルシカはコンポーザーのn-bunaがボカロPです。そして彼らは「又三郎」(=宮澤賢治『風の又三郎』)や「老人と海」(アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』)といった様々な文学をモチーフに作品を作っていました。
そして今や国民的作品を作るYOASOBIも、もともとコンポーザーであるAyaseがボカロPとして活動をしています。そして二人は小説作品をもとにして音楽を作るというように作品を発表していました。(今やあまり鑑みられないような気もしますが。)
正直なところ、この問題提起に対して書いている現在、結論は出ていません。ただ単純にやたらと「文学とか小説とかいうワード、この人たち好きだよなぁ」ぐらいしか、見えていません。
しかし、それは何か意味があるのかもしれません。少し長期的に上記にあげたEve、ヨルシカ、YOASOBIといったアーティストの経歴、作品、また周縁のインタビューなどの言説を見て彼らを論じていきたいと思っています。
ひとまずは問題提起だけ。もしかしたら、とん挫するかもしれませんが、温かく見守ってください。
(各論に続く)