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ウルトラマンとゴジラの町に見た「戦後」の集合意識

 福島県須賀川市の小さなビジネスホテルに泊まった夕方、「帰ってきたウルトラマン」のメロディーが町中にながれた。朝は「ウルトラセブン」だった。
 そうだ、ここは円谷英二の出身地なんだ。「円谷英二ミュージアム」を訪ねることにした。

 役場から歩いていくと、道路沿いのあちこちにウルトラマンやセブン、エレキング……の像がたっている。

「ette テッテ 須賀川市民交流センター」は図書館やら学習ルーム、子どもの遊具、調理室などの複合施設で、あちこちに書棚が配置され、老若男女がのんびりすごせる空間になっている。その5階にミュージアムがある。
 英二は1901年生まれ。母は彼が3歳のとき19歳で死んだ。飛行機に乗りたくて飛行学校に進学したが、学校がなくなってしまい、映画のカメラマンになった。

 彼に衝撃をあたえたのが、1933年公開のキングコングだった。これまで脇役だった特撮がはじめて主役におどりでた映画だった

 東宝の社員だった円谷は戦争中、「ハワイ・マレー沖海戦」の国策映画をミニチュアの船による特撮技術でつくりあげた。円谷にしかできない戦争映画だった。

 戦後の1947に公職を追放され、1952年に51歳で追放が解除されると、2年後の1954年にゴジラを完成させる。オキシジェン・デストロイヤーという新兵器など、怪獣も機械も造形がおもしろい。第3次大戦がテーマの「世界大戦争」では、地中も水中も空も自由自在にうごけるスーパー戦艦が登場する。一方で「日本誕生」は神話の世界の八岐大蛇退治などを表現した。
 テレビに進出して、1966年に「ウルトラQ」と「ウルトラマン」、1967年には「ウルトラセブン」を生みだした。
 ぼくらは無邪気に熱中していたけど、科学の進歩の夢と、科学がもたらす悲惨の双方を表現する円谷の怪獣映画は、社会が共有していた戦争体験を表現していた。
 ガンダム以降は、正義と悪の二分法ではない「悩み」は表現されるけれど、戦争体験を前提とした社会的集合意識ではなく「個人」の思いに還元している。1970年代に子どもだったぼくらは「戦争なんかずっと昔のこと」と思っていたけど、円谷の特撮映画をふりかえると、「戦争の恐怖という共通の集合意識」があったことに気づかされた。
 円谷は1970年の万博の年に68歳で死んだ。この前後が、戦後の終わりのはじまりだったのかもしれない。


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