30代で“入れ歯”になった男の悲哀
そこにあったはずのものが無い。心にぽっかりと穴があいてしまったような喪失感。舌を使って歯と歯の間の感触を確かめると、本当に穴があいていた。
小学生の頃に生え変わってから今までありがとう、僕の歯……。このとき、38歳。まだ30代にもかかわらず、僕は“部分入れ歯”になってしまったのだ。
ネットで調べてみても30代で入れ歯を使っているのは1~2%しかいないらしい。幼い頃に見た「ポリデント」のCMが思い起こされる。
「おじいちゃん、お口くさ~い」
自分には“入れ歯を使うのはおじいちゃん”というイメージが刷り込まれているため、ドラッグストアで購入するたびに“老いた自分”を突きつけられている気がして、なんだかショックを受けた。
まあ、自業自得だから仕方がない。振り返ってみれば、社会人になってからは“不摂生の極み”だった……。
大好きな焼肉が“苦行”に。食事がぜんぜん楽しめない
ああ、忙しい忙しい。嫌になっちゃうよ。
そう言って、スパスパとタバコをふかしまくり、炭酸飲料やエナジードリンクを1日に何本もぶちこんで、3食しっかりファストフード。ろくに歯も磨かずにデスクで寝落ちするという日々を長く送り続けていたのだ。
よっぽど歯が痛くならなければ歯医者には行かず、基本的には放置スタイル。だって、わざわざ予約して何回も通わないといけないのは面倒だもん……という調子でココまできたら、いよいよ右側の下の歯が痛くて噛めなくなってしまった。
“噛み込む”必要がある食べ物は「痛くて無理!」。大好きだった焼肉も味わえなくなった。
ホルモンなんて苦行に近い。痛くない左側だけで噛み続けていると、顎が疲れて攣りそうになってくるので、最終的にはリスのように前歯でかじる。これでは、せっかく高いお金を払ってご褒美に焼肉を食べてもぜんぜん美味しいと思えない。
次第に何を口にするにもまずは“痛くないかな?”と考えるようになってしまった(ちなみに、ハンバーグは柔らかいので歯が痛い人にもオススメの贅沢)。
大往生したうちのおじいちゃんが、生前は「歯を大事にしなさい」とよく言っていた。年老いると、いろんなことができなくなっていくが、人間として最後に残された楽しみが「食事」ということらしかった。
“幸せを噛み締める”という言葉もあるが、やっぱり噛み締めてこそ、なんだと思う。
今までありがとう、僕の歯…
「これは結論から言えば、抜いたほうがいいですね」
意を決して歯医者さんに行くと、そんなことを言われてしまった。むし歯が進行しているほか、歯周病の治療も必要とのことだった。「次回の治療で抜歯です」と告げられてから、長年お世話になった歯にお別れをしなければならないという寂しい気持ちでいっぱいになった。
この痛みとサヨナラできるのはうれしいけれど……。
その日の晩、僕は噛むと痛くなるとわかっていながら、あえて右下の歯で生姜焼きを噛み締めた。今までありがとう、僕の歯……。
「よいしょ、よいしょ」
歯医者さんのちいさな独り言が聞こえてきた。麻酔をしているので歯は痛くはないが、抜こうとして上に強く引っ張っているのがわかる。歯医者さんがプルプルと少し手を震わせながら「じゃ、いきますね」と思い切り力を込めると、“カチーン!”という金属音が脳内に鳴り響き、次の瞬間いっきに血の気が引いていく感じがした。
抜いた歯を見せてもらえたが、汚く変色してボロボロになっており、こりゃ抜くしかねえわと思った。
さて、抜歯後の選択肢は3つで、インプラント、ブリッジ、部分入れ歯。
しかしインプラントはめちゃくちゃ高額で、1本約30万円~。よく芸能人が歯の見た目を気にして「全部インプラントにした」なんて話を聞くが、ただでさえ生活費がカツカツなので論外である。
また、ブリッジは抜いた部分の両隣の歯を削らないといけないというので、わざわざ削る必要のない歯まで削るのはなんだかなあと。そうなると、僕的に残された選択肢は1つだ。値段は8000円ぐらいだという。
「では、部分入れ歯でお願いします」
待合室に戻ってソファーに座ると疲労感が襲ってきて、僕は放心状態だった。
「なんだか切ない」部分入れ歯の生活
ある日、ソファーで子どもたちとじゃれあっていると、
「ねえパパ、口の中見せて~」
「え、嫌だよ」
「なんで〜?」
子どもたちには、パパが入れ歯であることは伝えていないのだ。ことあるごとに「パパって入れ歯なんだよ~」とか周囲に言いふらしかねない。
わざわざnoteに書いておきながらこう言ってはなんだけど、入れ歯は「恥ずかしい」という気持ちがある。
昼ごはんを食べた後なんかは入れ歯の隙間にカスが入り込んでしまったりするので、こっそり会社のトイレで外して洗っていたりする。空手の稽古では、ミット持ちをしていると、相手の蹴りの衝撃が入れ歯の部分に“ガチッ”と響くことも……。日常生活において、思いのほか“入れ歯”を意識せざるをえない場面は多いのだ。なんだか切ない。
失ってからようやく歯の大切さに気づいた。1本無いだけでこれなのだから、複数本の歯が無くなってしまったら……考えただけで恐ろしい。
歯を抜いてから約2年、今まで歯医者さんにはぜんぜん行かなかった僕も「定期検診」に通っている。
<文/藤井厚年>