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読書「学校で育むアナキズム」その1

そもそも「アナキズム」をあまり理解しておりませんのでお恥ずかしい・・・
「アナキスト」と言えば大杉栄かな・・?ぐらい。

そんなとんでもない初心者ですが、興味があったので読んでみました。

「アナキズム」は「無政府主義」と訳されるそうです。
別に危険な思想というわけではないです。
支配されるのではなく互いを信頼することにより社会を創っていこう、という感じなのかな。

そうした「アナキズム」と「学校」。
うーん。うんうん。

さあ!気になったところをめっちゃ引用しますよー!

現在、学校こそが、人々が普通に行っている助け合いとは逆のことを子どもたちに教え込んでいるのではないかと危惧する。他者は「信頼」できないのであり、自分がしっかりとしなければ、いつ競争に敗れてひどい目にあうかもしれない、と。だから、一生懸命に勉強して、他者よりも優位な地位を得なくてはならない、と。つまり、弱肉強食の社会の中でいかに生きていくか、それへの適応が子どもたちに求められているというわけである。
しかし、競争あるいは闘争的環境の中で生きていくことが、子どもたちの未来なのだろうか。(中略)「闘争社会」は幻想であり、虚構である。確かに、生活していく中では、競争的なことも起こる。そのあり得るひとつの現象を取り出して、やや誇張して、まるでそれが一般的で必然的な前提かのごとく社会生活が語られているのではないか。

「学校で育むアナキズム」P31

学校は、日頃のさまざまな活動を通して、「寝坊した子」を放置するようにとのメッセージを子どもたちに伝えている。「世の中にでたら、誰も助けてくれないぞ」などと、子どもたちは常に脅されている。(中略)しかし、実際には「世の中」のほうが、よほど助けてくれる。

「学校で育むアナキズム」P132

日本国憲法第25条の「生存権」規定によって、人は生まれたからには、確実に一定の水準を満たした生活を送る権利が保障されている。高学歴者には十分な生存権が確保されるが、そうでない者にはある程度の不利益はしかたない、などという「生存権」はない。

「学校で育むアナキズム」P150

うちの7歳息子は学校で「周りを蹴落とし自分が優位に立つ思考」を日々植え付けられている気がしております。
そう教わることによってそういう社会が創られているのが現状。
でも助け合うことこそ生き延びるには必要なのではないでしょうか・・・

教員の「社会に出てから困るぞ」という決まり文句の中に、すでに学校の性質が言いあらわされている。(中略)学校は「社会」ではないと認めていることになる。
(中略)学校に行っている状態こそ、「社会」から離れてしまっているのである。子どもたちは、それぞれを取り巻くさまざまな関係の中で、すでに社会生活を送っているのに、なぜ、わざわざ学校に行って「準備」しなくてはならないのか。あまりに理不尽な慣習(それが校則になっている場合もある)と不自然な集団があり、本当に「社会に出るための準備」なのかと疑いたくなる学校に。

「学校で育むアナキズム」P194

私は学校も家も「社会」だと思っています。
練習ではなく本番だと思ってます。

学校を終えて行く場所が「社会」ならば、
もしその社会が「競争」にまみれた弱肉強食の世界ならば、
それを「変えていこう!」と考えて行動できる人間を育てるのが学校の役目ではないでしょうか・・・


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