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予想できない未来に対して、人は何をイメージしてきたのだろうか。現在開催中の都城市立美術館での展示から当時(1990年代後半)の活動について語ってみる。

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宮崎県と鹿児島県の県境にある都城市。最近中心市街地の大型ショッピングセンターの跡地をリノベーションして新しいタイプの図書館ができたことで注目されているが、そのすぐ近くの市立美術館で収蔵作品展が開催されている。この美術館は地元関係の近代美術はもちろんのこと、南九州出身の現代の作家(多彩なジャンルに焦点を当てていて興味深い)作品のコレクションも行ってきている。かなり地道な努力が涙ぐましい。その関係で僕の出身、甲南高校美術部の後輩たち(小山田徹と高嶺格)の作品もコレクションされているが、その状況はかなり稀有なんじゃないかな。本当は全国の美術館がそのような努力をすべきだと思うが、美術館のコレクション方針や設置条例、予算不足、勤務形態の不自由さ、あるいはが近代の束縛のようなものが美術館の学芸員を押し潰し、現在様々な現場で活躍している創作者(広い意味での作家)の活動に興味や関心を注ぐことすらできないのが現状なのかもしれない。(下の写真は1997年当時の都城市立美術館での展示風景)

都城展示室内

僕の収蔵されている作品は1989年から1996年まで鹿児島市中心部で経営していたmedia garden Eスペイス(アートカフェ)の象徴的な存在だったヤセ犬の絵画2点(絵画作品が収蔵されているのはここだけ)とヤセ犬数点。その頃テーマにしていたのが「この世界をいかに歩くか。その歩き方」
 世界地図をモチーフに五大陸のテーブルを作り、空間全体を表現の場として開き、新しいパブリックアートの形を提案しようと試みた。その運営のためにカフェの顔を持つことにし、60歳を越えた素人の母親を口説きお店の運営の責任者になってもらい、姉たちの協力も得て家族のプロジェクトとして7年間経営を試みた。(下の写真は開店当時のイイスペイス 1989年)

オープニング奥から入口#994

イイスペイスがオープンした1989年当時は国際協力の現場(パプアニューギニア)から帰国して2年目で、東京の都市計画事務所で働きはじめたバブル期直後。経済成長への違和感と地球環境の変化への焦燥感、そして世界が滅亡すると噂されていた世紀末現象など言語化できないモヤモヤが渦巻いていた時期だったと記憶する。その後の僕は東京でサラリーマンとして働くことへの違和感を抱きながら1ヶ月分の給料で購入した1トンのお米と格闘し、都市生活から離れ、拠点を鹿児島のイイスペイスに移し地域と向き合おうとしていた。(下の写真は今回の収蔵展の一部 2020年)

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その当時は「野豚を追うヤセ犬」の物語についてかなりリアリティを持って記憶していた。そしてその後1996年までかけてその記憶をより強固なものとして定着させるために101匹を目指して廃材から作るヤセ犬を彫り続けた。1988年から90年にかけて東京の再開発で取り壊されてゆく家の柱から5匹、93年に鹿児島に引っ越してから鹿児島の大島紬の織り工場廃墟から拾った木材から11匹、そして1993年に鹿児島で被災した8・6水害で流された倉庫の瓦礫の柱から残り85匹。今まで気づかなかったがヤセ犬を彫っていた時期とイイスペイスを運営していた時期と重なる。そして地域で表現活動をすることについてこだわり始めた時期でもあった。(下の写真は101匹のヤセ犬が初めて上陸したアトピックサイト展 東京都の都市博の中止を受けて企画されたコンテナが立ち並ぶ展覧会 東京都国際展示場ビッグサイト 1996年)

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実はその後、1997年にヤセ犬誕生10周年の誕生パーティをした時、当時の記録を探していて「『野豚を追うヤセ犬』より」という怪しげな文章しかなく、当時の明確な記述が見当たらない。(普通かなり詳細に日記のようなものを記述しているのだけど)そういえばヤセ犬のイメージに出会ったのは2度ほどマラリアを発症し41度越えの熱で苦しんでいたパプアニューギニアでのこと。もうすでに自分の記憶が曖昧な事に気づく。1987年の原生林でのヤセ犬体験は僕にとって記憶の中でのリアルなものでしかなかったのではないか。もしかしたら僕の記憶は捏造されたのかもしれないという疑惑。そのさらに10年後の2009年それを確かめる機会があり、その頃からイメージが現実のものとして定着してゆく記憶のプロセスに興味を持つようになり、最近はイメージが生成される夢と現実のあわいにも興味を持つようになった。

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(上の写真は現在展示中の恐竜の骨のドローイング) ところで、恐竜の骨の化石はいつ頃からあったのか・・・恐竜が活動したのが2億3000万年前から6600万年前だと言われているので、人類史が始まる遥か以前から世界中の地層深くに眠っていたことは紛れもない事実。それが地殻変動で、あるいは洪水によって、地表に出てくることもあった。

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この数千万年という時間軸と人類の発生につながる百万年、あるいは数十万年という桁違いの時間軸を認識することはとても難しいが、いずれにしても人類誕生のきっかけにイメージする力が作用したとすれば、この地中深いところから現れる巨大な生物の化石は石を使い始めた人類の祖先に大きなイメージを与えた事には違いない。

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宮崎県の都城市と高原町にまたがる御池にも九頭竜の伝説がある。御池を望む霧島東神社には龍神の安息地としての霊泉が祀られていて、毎年5月には龍神祭が執り行われているらしい。

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僕はこの龍神の存在を無視できない。別にそれが好きだとか嫌いだとかではなく、無意識だが放っておけない。京都で過ごした学生時代に妙心寺の法堂の狩野探幽の龍雲図が気になり、二十歳の時にその同サイズの模写を試みた。また、京都の西山にあった当時長さが50mを超える老松「遊龍の松」に感動し(成長を強いられている姿に疑問を持ちつつ)その等身大模型を作ったりした。菅原道真がモチーフの青森ねぶたの廃材を使って大阪の天神橋の下に飛龍や白龍を作ったこともある。

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人類は想像を遥かに超えた事象に数多く出会ってきた。1世代のうち数回は大きな被害を被ってきた。その体験の記憶は僕自身の遺伝子の中にも数多く組み込まれているのかもしれない。それは災害であり、疫病であり、戦争であり事件や事故であった。そして、多くの死に直面し、生きるか死ぬかの苦境の中で様々なイメージ(幻覚、幻影かもしれない)を見出し、生き残ってきた。そして生き延びたものだけが生きる力の源として具体的なイメージを描き出してきた。

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人は、あるいは生物は、その時々の環境や状況に順応するように変化しつつ生き残ってきた。いや違う。順応できるように変化した生物だけが生き抜いてきたのだ。今回そのような生き抜くために人が作り出し繋いできたイメージの発生と、その連鎖について思いを巡らせながら、美術館の前に30mの長さの九頭龍を作ろうとしている。その制作のプロセスを都城の人たちと共有して楽しもうと思っていたのだけど、新型コロナウイルスの影響で果たしてどうなることやら。シフトチェンジが必要かもしれない。

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それよりも、この新型コロナウイルスの緊急事態発令の状況で世界中で数多くの人が家に篭り、新しいイメージを熟成しているに違いない。ここから必ず何かが生まれてくる。実はもう生まれつつあるのかもしれない。この状況に対応するように新しい活動は発生する。新しいイメージが生成され、それが活動の連鎖を生み出す。そして確実に次の世代へとこの体験の遺伝子は生物的にも社会的にも受け継がれてゆく。その転換期に立ち会えることに震える思いがする。一体、今、何が起こっているのだろうか。10年後の世界から今を振り返った時、そこには何があったかある程度見えてきていると思う。しかし今それが見えない。それは何が足りないからなのか。視力や聴力か、思考力か、行動力か、それとも感性か、・・・。

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都城市立美術館は今のところひっそりと展覧会開催中。たぶん。
そして今のところ夏ぐらいから美術館前で絶賛制作予定。なのかな。
そしてそこでは間伐した枝など絶賛募集する予定。それと・・・一緒に作る募集する事になると思います。8月とか9月中ばぐらいまでの予定。

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ちなみにnote初めて使ってみました。初投稿なので長くなった。いかんな。

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