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性教育の経験主義的な解決策

このツイートを通して

二つの問題点が浮かび上がる。

・親近者を優先的に受け入れる
・経験を無批判に受け入れる

この問題に教育はどのように向き合えばいいのだろうか。「講演会の限界」について伝えられているが、この教育構造に向き合うことで限界を突破できないか?その足掛かりを見つけることを目的とする。

[教育の歴史]

 そもそも日本における教育の変遷について軽く整理しておくと、『既存の知識や概念を暗記等により、上から権威的に子供に注入しようとする』教条主義の教育に対して、『子供自身の感覚・直感を重視し、経験を通して子供の発達を図ろうとする』経験主義の教育に目を向けられた。しかし、戦後の学習指導要領改訂の概要において、1947年版の学習指導要領は全教科にわたり「経験主義」や「単元学習」に偏っていたために1958年版では『各教科の系統性を重視し、基礎学力の充実を図る』系統主義の教育に移行した。と、文科省では解説されている。現在も系統主義的な教育は基盤に置いてるが、系統主義による暗記的な基礎学力に目を向けるのは違うのではないか?という経験主義を主体にする方向にも目を向けられている。

 今回のツイートの[講演(教育)のあり方の限界]は正に従来の教育では限界があるという経験主体の方向を強化する言説になり得る。一方で経験主義から系統主義について文科省では『子どもの経験を通して子どもの発達を図る「経験主義」が行き過ぎると、基礎学力がつかない』という問題が指摘されている。今回のツイートではそのような経験主義の悪性にも目を向けられる内容となっている。

[教育の経験とは]

 哲学者のデューイによると教育の経験とは、どのような経験も指すわけではない。教育的な経験とは、『非反省的経験から反省的経験(思考)を経て、新たな非反省的経験へと発展する過程』のことを指す。そして、この【経験の再構成・再組織】こそが教育であるとした。教育に取り組むなら「今ここにある問題に、絶え間ない経験の連続」を構造的に導入する必要がある。


[講演会の限界とは]

 最初に伝えておくと、デューイのような教育構造には問題があると考える。しかし、経験的なものを優先させる人間の機能性を前提に考えるなら、経験的な学習を教育側が組み込む必要も感じる。特に性教育のようなその後の人生を直接的に大きく左右しかねないものは重要と考える。

ここで冒頭の問題に衝突する。

〈親近者を優先的に受け入れる〉

 「一番信頼してる身近な大人」という親近性の高さが「講演する大人」よりも影響力がある要因だと読み取れる。この側面は否めないにしても、どちらかと言えば“経験”による差が大きいと思う。これは同時に教育の限界の一つでもある。どれだけ講演や教育で伝えても、所詮、直接的な経験にはなり得ないし、だからと言って実務経験を教育現場で行うことは極めて非現実的である。

〈経験を無批判に受け入れる〉

 正確に言えば「生でしても洗えば大丈夫」という珍説を本気で信じる人は、少なくとも日本の大人でそれを信じる人は少ない気もする。問題はおかしいと思っていても「妊娠しなかった」という成功体験が性行為中などの判断力が低下してる時だと、そのような“経験”を都合よく信じて受け入れてしまうのだ。(両者ともに)そして、一度の経験より二度の経験の方が強化されるし、その主観的な経験も事実より都合のいい部分を切り取り“無自覚”に受け入れて内在化させる問題が考えられる。これは経験主義の悪性である。つまり、可能性の問題に対しては実際に現実問題になるまで気づけない…いや、止められないのだ。講演ではこのような個人の内在化問題まで介入できない現実はある。

[どうすればいいのか]

 では上記のような問題を踏まえてどのようにしていけばいいのだろうか?難しい問題ではあるが、「反省的経験の第三者介入」を提言したい。先程出た『非反省的経験から反省的経験(思考)を経て、新たな非反省的経験へと発展する過程』この過程の介入こそが、内在化の問題と抑止的な機能を生むと考えている。当然、非反省的経験(性行為)に介入することは現実的ではない。しかし、その後の反省的経験(思考)を第三者が介入することは必ずしも非現実的ではないと考える。もちろんそのようなプライベート的な問題に第三者が介入することに抵抗を覚える人は多いと思う。学校教育の現場(先生に相談)というのも危険だと思う。そこで、この第三者は“ネウボラ”のような存在を想定している。

ネウボラとは
フィンランドなどで有名な社会サービスで「その地区の妊産婦や家族を、妊娠中から子どもが小学校に就学するまで、常駐している同じ保健師が継続して支援する」という事業です。フィンランドでは、妊娠が分かると、まず地域のネウボラを訪ねます。ネウボラには助産師の資格を持ち、出産・育児に関する高い専門性を有している保健師が診察室を構えていて、妊婦1人に1人の担当保健師がつきます。日本では、妊娠すると母子健康手帳の交付を受けるために自治体の窓口に行き、妊婦健診のために産科に行き、さらに母親学級のために保健センターや産科などに行くのが通例です。一方フィンランドでは、妊婦はネウボラの担当保健師の部屋に通います。担当の保健師は、母子健康手帳の交付や妊婦健診、乳幼児健康診断(以下、乳幼児健診)など、それらのすべてを支援してくれます。

https://www.daiwa.jp/sodatte/child/s0214/

 このような[性的な相談者]版のネウボラ(特に10代を対象とした)を社会サービスとして認知していくことで、性の経験的な教育に取り組めると考えた。「性行為をしたらネウボラに訪ねる」もしくは、それに関わる不安が生じたらいつでも訪ねるのが当たり前になる事でこのツイートの問題解決の一助に繋がるのではないだろうか。

 ネウボラが社会に根付くことで、心理的安全性が働くことも考えられるし、性行為という極めて内在化しやすい問題を第三者が介入することで解消したり、社会的な親近者にもなり得る。行きすぎた経験主義を防げる可能性も高まる。なによりも「第三者の目」というフーコーのパノプティコン的な抑止力も期待できる。大人が珍説を伝えられたり、都合のいい行動を選択できるのも、そのような「第三者の目がない」という現実も大きいと考える。

 重要なのはそのサービスが存在するだけではなく、実際にサービスが認知されて“利用するのが当たり前”という社会まで持っていく必要がある。それに向けて更に考えを深めて社会の取り組みの一助になりたいと考える。

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