「死にたい」という感情
世の中には希死念慮という言葉があるらしい。
便利な言葉だと思った。
僕は大晦日から三が日まで帰省をしていた。
大晦日の風物詩といえば、真っ先に思い浮かぶのは「紅白歌合戦」だ。
例によって、2024年の大晦日も紅白を見ていた。
というよりは、他に見るものもないので、家族が見ていた紅白を隣に座って眺めていたという表現の方が正しい。
白組のトップバッターはこっちのけんと氏だった。
彼の歌う曲は2024年の話題曲だったようだ。
流行り物に疎い僕でも、彼の代表曲「はいよろこんで」は耳にしたことがあった。
順風満帆とも言える彼だが、年明け1日にとある発表をした。
それは活動の当面休止だ。
勢いある今、なぜそのような決断をしたのか。
つまり、彼は鬱病であり、その病気と戦うために活動休止という選択を取ったのだ。
この発表をネットニュースで見た僕の家族は、
「こんな元気そうなのに死にたいと思うなんて可哀想。」と
どこか遠くから彼のことを哀れんでいたようだった。
しかし、僕は家族と同じ気持ちにはなれなかった。
僕が「死にたい」と思ういわゆる、希死念慮を抱くようになったきっかけは些細なことだったと思う。
それからというものの何かと希死念慮を抱いていた。
そして、それを明確にさせたのが「就活」だった。
僕が就活をしていたのはコロナ前の最後の年だった。
東京オリンピックも控え、売り手市場だと言われていた。
当時の僕はその言葉を間に受け、これまでのらりくらりと生きてきたものだから、今回もそれでなんとかなると思い込んでいた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
売り手市場というのは、能力がある人にとって売り手市場というだけであって、何の功績もあげてこなかった僕には縁もゆかりもないものだった。
応募した会社は軒並み落ち、その度に無能の烙印を押されている気分だった。
毎日が憂鬱だった。
僕の希死念慮は一時期大いに暴走し、遂にはとある本に手を出すことになった。
それは『完全自殺マニュアル』と名のついた本だった。
自殺について調べていた時に出会った本だった。
半分冗談のつもりで本を購入し、読み進めた。
ある種のジョーク本であるということもあるが、それ以上に自殺という選択肢が増えたこともあり、楽しく読んでいた。
しかし、この本は途中で読むのをやめてしまった。
というのも、とある章を読んでいた時にその自殺方法を想像したところ、痛々しくなってしまったからだ。
最終的にはその章から先には進めず、いよいよ積読になってしまった。
今になって思うのは、結局僕には本当に死ぬ程の気概はなかったのだ。
その後、運良く滑り止めとして受けた会社へに受かり、そのままその会社へ入ることにしたため、就活からは逃れることになった。
それでも希死念慮からは逃れることができなかった。
ある日、友達がこんなツイートをしていた。
僕はそれを見て驚いたのを覚えている。
僕の考えが“異常”であることに気づいた瞬間だった。
たまにこんなことを考える瞬間がある。
「僕は何かしらの精神疾患を抱えているのではないか。」と。
こっちのけんと氏が鬱病であるのと同様に僕もそうなのではないかと考えることがある。
その一方で、僕の希死念慮は彼のそれとは発生源が違う。
僕の場合は自身の怠慢から生じているわけで、それを病気とするには本当の疾患者に対して失礼極まりない。
加えて、仮に何らかの病気であれば、まだ救いようがあるかもしれないが、ただのダメ人間という認定がされてしまえば、いよいよ手の施しようがなくなってしまう。
側から見れば可笑しな構図だが、自身の心の安寧のために通院しないという選択肢を選ばざるを得ない状況でもあるのだ。
僕はこれからも希死念慮と過ごさなければならないだろう。
そして、希死念慮とお別れができる日は、僕がこの世を去る日になるに違いない。
それまで身近な人に悟られまいと行動することが僕にできる唯一の救いなのかもしれない。
では、また。