エッセイ⑱「箸運び」
思いがけない形で、ここから食卓は変わりました。
今、食卓を作るのはわたしの役目に。
置く箸は二膳に。
亡くなった母のような立派な食卓は、わたしには作れていません。
ただ、まるで出来る気がしていなかったのにそれが役割になれば、人はやるものですね。
8月、福島のお盆のころには兄が少し帰ってくるので、ちょっとお箸は三膳に増えます。
またきっと形は変わっていきますが、せめて今はわたしの出来る限り、日々の食卓を作り上げていきましょう。
箸を食卓に運ぶのはわたしの役目。
いつからだろう。
家族で誰が何を言ったわけでもなく、それはわたしのお役目だ。
黒。紫。桃色。緑。
いつも並ぶのは、向かい合わせで父の黒と、母の紫。
わたしがいる間は桃色が加わって、兄が時々帰ってくると緑でそろう。
今、わたしが東京から体調を崩して実家に帰ってきているから、食卓の上の箸はぜんぶで三膳。
毎日毎日、決まった場所に家族の箸を並べながら思う。
わたしがいない間は、いったい誰が箸を運んでいるのだろう。
その時の箸の数は、黒と紫の二膳。
兄の食卓はどうなのだろう。
彼は東京でひとり暮らしをしている。兄も自分専用の箸を使うだろうか。コンビニのごはんばかりだと、よく使うのは使い捨ての割り箸だろうか。
箸って、食事の豊かさを表したりするんじゃないだろうか。
箸を食卓に並べる時、さあ、きちんと食事の時間を始めるぞという気概を感じる。
持ち手に合わせた方向で、まっすぐに置く。
左にごはん。右にお味噌汁。
副菜の小鉢があって、家族全員の箸が届く位置に主菜の大皿を置く。
野菜やたんぱく質のバランスも考えられた、毎回の豊かな、立派な食事の時間。
自分でこれを日々作ろうと思ったら、とてもできる気がしないのだから、母はすごい。
それを当たり前の日常としている、父もすごい。
たまにひとりでジャンキーなものを齧る、それも楽しみだけれど、わたしの中でそれはやっぱりちゃんとした食事ではない。
箸はそうして彩りと気概と安定を食卓に与える。
粛々と食卓を整えながら、またふと思ったりする。
もしかしたら、いつか、まだ知らない誰かの箸も食卓に並ぶようになるのだろうか。
それは何色だろう。
お客様用なら割り箸かもしれない。けれど、それがきちんとした食事を当たり前にいただく仲の人物だとしたなら。
それとも、今度はわたしがこの食卓を別に創り上げる時が来るのだろうか。
そうしたら、この今並べている箸の色は減り、わたしの箸運びのお役目はここでは返上されることになる。
普遍的ではない。箸の数は減ったり増えたり。両親も永遠に生きるわけではないので、この食卓もやがてはなくなる。
変わっていく食卓に、現在や、過去や未来が見える。
そのひとつずつが二度とない大切な食卓であることは、いつの時も変わらない。