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「気持ち悪い」人々 [三島由紀夫〈豊饒の海〉四部作『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』]

三島由紀夫の〈豊饒の海〉四部作、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』を読んだ。

三島由紀夫は、高校生のころ、当時新潮文庫に入っていたものは、すべて読んだ(内容は忘れた)。
〈豊饒の海〉以外。
〈豊饒の海〉を読んでいなかったのは、タイトル的に、なんかこう、『潮騒』みたいな、わざとらしい青春恋愛ものかなー、それが4冊あっても読めないと思ったからだった。
しかし数年前、〈豊饒の海〉は、夢と転生をモチーフにした物語で、かつ、平安期に書かれた王朝物語『浜松中納言物語』を取り入れた構成になっていると聞いて、興味を持った。そのまま興味を持ったこと自体忘れてしまっていたのだが、今年は三島由紀夫生誕100年ということでいろいろキャンペーンが行われているのを見て〈豊饒の海〉のことを思い出し、やっと、読んだ。


いやー、今まで読んでなかったのを後悔するくらい面白かった。本当に面白い。
「ネタバレ」一切なしのまま、「昭和の大文豪の作品だからすごいんだからすごいんだ」くらいの気持ちでそのまま読んでいただくのが一番面白いと思う。自分は事前に内容を知らないまま読んで良かったと思った。なので、以下ではできるだけ「ネタバレ」をしないままで、〈豊饒の海〉の面白さを書きたい。

とはいえ、あまりに何も書かないと良さを語っても意味がわからないので、『春の雪』だけ、私の感性に従ってあらすじを書いておく。

『春の雪』あらすじ
物語は、大正元年のころにはじまる。
学習院に通う松枝清顕は、今年18歳になった。
清顕の父は、渋谷に広大な邸宅を持つ松枝侯爵であった。松枝侯爵は明治維新を機に成り上がった鹿児島出身者であったが、それゆえご一新以前から身分のある元公卿の貴族たちの優雅さを羨望していた。息子清顕には公卿たちのような一流の教養や身のこなしを身につけさせたいと考えた松枝侯爵は、羽林家の家格を持ち、和歌と蹴鞠の家として名高い綾倉侯爵へ息子を預けた。綾倉侯爵には聡子という娘がいて、2歳年長の聡子と清顕とは、姉弟のように、あるいは唯一の友達のように育った。
今では清顕は松枝の渋谷の邸宅へ戻り、将来の帝大への進学を考え、勉学に励まなくてはならない身となっていた。しかし、彼は、「何者かにならなければならない」と考えている同級生たちとは違い、「何者にもならない」ことを決めていた。彼は自らの感性のみに生き、その純粋さを守ることを誓っていたのだ。そして、日々の夢を日誌につけるのをもっぱらの関心としていた。
そんな清顕には、本多繁邦という親友がいた。2人は、実がないままにやたらと声を張り上げることに情熱を注ぎ、そのことによっていい気になっている剣道部の学生たちを軽蔑し、自分たちは彼らとは違うのだと考えていた。本多の父は大審院判事であり、本多自身も将来は父と同じ法の道を志していた。清顕の家と本多の家では資産の面では大きな隔たりがあったが、清顕はかまわず付き合い、本多を頻繁に家へ招いていた。本多は、自分とは真逆の、何者にもならないことを誓って生きる清顕の気高さに強烈な憧れを抱いていた。あるとき、本多は、裸になった清顕の脇腹に3つのほくろを見つけ、それに取り憑かれる。(激重男男感情男①)
さて、松枝家には、飯沼という名の住み込みの書生がいた。飯沼は鹿児島の学校から推薦されて東京の松枝家へやってきた青年で、自身は学校に通いながら、清顕の身の回りの世話をしていた。飯沼は明治維新の大業を成し遂げた松枝侯爵の父(清顕の祖父)を崇拝していたが、華美と奢侈に溺れ、謹厳な心を忘れた松枝侯爵を軽蔑していた。そして、清顕には、彼の祖父のように偉大な人物になって欲しいと、異様なまでに強く願っていた。しかし、清顕のあまりの美貌と「何者にもならない」ことへの強い意思は飯沼の期待を大きく裏切るもので、彼の思念はどんどん煮えたぎっていく。(激重男男感情男②)
綾倉家は今なお優雅な家ではあったが、時代の潮流についていけずに没落し、内情は逼迫していた。しかし、松枝家と綾倉家はいまでも交流があり、松枝家で行われる折々の行事には聡子も招かれるのが通例となっていた。
あるとき、松枝家は日本へ留学にきたタイの王子たちの世話をすることになる。王子たちから情熱的な恋の話を聞いた清顕は、自分にも恋人がいると言い張り、聡子を嘘で呼び出して、王子たちに引き合わせるが……


本作のよくある解説は、「清顕と聡子の悲恋が云々」というものだろう。実際、そういう話だ。プロットとしては、そこが軸になる。
しかし、私が強調したいのは、本多、飯沼という二人の激重男男感情男の存在だ。こいつらが激重すぎてまじでヤバい。重すぎて異常者すぎる&重すぎて言動が気持ち悪すぎる。
主人公清顕は、ガラスでできた像のように非現実的なまでに透明感のある高潔な人物として描かれている。が、本多と飯沼は間違いなく肉でできていて、湿り気あるいはカサつき、臭いや垢があり、体毛がみっしりはえた生々しい人物として描かれている。こいつらはおのおの、「清顕のことを本当にわかっているのは俺だ」「俺が清顕を守る」と思っている(はっきりそうは書かれていないが、そうとしか思えない気持ち悪い思い込み言動をとる)。彼らは自らの高潔でなさ、気持ち悪さを自覚しており、それゆえに清顕に強烈に憧れる。その過剰さが尋常ではなく気持ち悪く、本当に気持ち悪い。

というか、気持ち悪い人物は、親友本多と書生飯沼だけではない。この作品に登場するすべての登場人物が気持ち悪い。途中までは「わたし、人畜無害な一般人」みたいにうっすい存在感でしかなかった人物が、突如気持ち悪さを発露し、異様な存在感を示してくるのが本当に気持ち悪い。
そして、気持ち悪さのバリエがはんぱない。人間の持っているありとあらゆる種類の気持ち悪さが描かれている。人物を気持ち悪さの程度や方向性で書き分けているとしか思えないほど、気持ち悪さの彩りがすごい。「気持ち悪い」の絵の具箱1000000色セット(追加パック、バラ売りもあるでよ)。
気持ち悪さをボロンと出してくるタイミングがまた気持ち悪い。今それ言うなよという気持ち悪さ。そう、気持ち悪さを発揮してくるタイミングの気持ち悪さも気持ち悪すぎて、すごい。ちょっとネタバレになるが、聡子の乳母・更科らの「今、その、話!?」のタイミング最悪の気持ち悪さとか、尋常ではない。
気持ち悪さの表現も微細。女性ならわかると思うが、「化粧が変で違和感を覚えていたら、実際言動がヤバい人」っているじゃないですか。あれがわいてきとんのよ。単に化粧が濃すぎとか、逆に化粧に興味がなくてなんもしてなさすぎとかじゃなくて、いるじゃないですか。なんか眉毛を異様にはっきり書いててしかもなんでか途中で途切れてるとか、ノーメイク派なのはわかるし肌が綺麗なんですねってのは理解するけど化粧水でヌルヌルテカテカのままで出歩いてるとか、そういう人。本作の場合は、シワに入り込むほど白粉をべったりつけていて、色が浮いていて不気味という老婆が出てくる。こ、こういう人、いるッ。という気持ち悪さ。(ちなみにその人物がヤバ化粧をしている理由も気持ち悪くて、気持ち悪さのたたみかけが本当にすごい)
『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』でもその気持ち悪さは変わることがなく、どんどん気持ち悪い人物が湧いてくる。最後の『天人五衰』は、気持ち悪い人物(気持ち悪すぎて、ここではじめて「悪」の域にいく)同士の気持ち悪さの最終決戦になる。(本当)

「気持ち悪い」連発しやがって、アホかと思われるかもしれないけど、本っっっっっっっっ当に気持ち悪いから!!!!!!!!  絶対読んでほしい、この気持ち悪さ。大きな石を持ち上げたらその下にうじゃうじゃいる系の気持ち悪さ。そのうじゃうじゃをじっと見てしまうアレ。石を戻しても、気持ち悪いアレたちは四散しはじめていて、元に戻らない気持ち悪さ。うわーーーっ靴に登ってきたーーーーーー!!!!!! ぎえええいつのまにか手にもくっついてるしーーーーーー!!!!!!!!! こいつ飛ぶのかよーーーーーー! 勘弁してくれーーーーー!!!!!!(ここでカバンを地面に置いて手についたやつを振り払おうとしたら、カバンの中にも入ってくる) もげえええええええええええまじでキモいーーーーーー!!!!!!!!!!!!! 挙げ句の果てが、ハッと気づいたら、自分もラベンダー色の巨大なゲジゲジになってた……⤵︎⤵︎⤵︎的な気持ち悪さ。

人間の持つ「気持ち悪さ」(文学批評風に言いかえれば、「暗部」)は三島由紀夫の生涯のテーマだったと思う。『金閣寺』ではそれが多少のイヤーな感じがありつつも美的に表現されていたが、遺作である〈豊饒の海〉にイヤさが大豊作となって結実しているのだろうと思った。

なお、『春の雪』『奔馬』はストーリーの骨格が相当にしっかりしていて、小説としての完成度がきわめて高い。三島由紀夫は「あらすじだけ読んでも面白いように書いた」と発言していたようだが、その通り。男男感情とか異常クソキモ人物の群れとか関係なく、ストーリーやその仕掛けそのものが面白い。誰が読んでも面白いように書かれている。そういう意味でも本当におすすめ。


ストーリーの面白さもさることながら、テーマ性と作家の美学が徹底して貫かれていることにはびっくりした。そして、そんな小説が「昔」は一般誌に連載されていて、「普通の人」にも注目されてたんだということに、本当に驚いた。

このシリーズの面白さのひとつとして、4作品それぞれに、文体や小説としてのジャンル性のの書き分けがなされている点がある。
あんまり言うとネタバレになってしまうのだが、『春の雪』→『奔馬』→『暁の寺』→『天人五衰』と進んでいくにつれて、人間の人生における感性の変遷が文体に表現されているのだと思う。
たとえば、『春の雪』は、いかにも三島由紀夫らしい、装飾的で絢爛な書体の青春小説風に仕上げられている。大人の世界とは隔絶した若い主人公たちの感性からみた「世界」が存分に描き込まれ、ごく普通のはずの出来事、風景までもが超絶高解像度をもって表現されている。また、もはや「擬古文」の域にいっている重厚な敬語の多用も特徴。古典文学は敬語の多用や多彩さに特徴を持っている。先述の通り、〈豊饒の海〉は貴族たちの世界を描いた王朝物語『浜松中納言物語』をモチーフにしているが、本作ではそれが「今ではそこまでの言い方はありえない」と思うほどの皇室に対する「やたら慇懃な」敬語としてあらわれている。
『奔馬』には裁判シーンがあり、その部分では突然文体が裁判記録風のト書きになる。裁判でやりとりされる言語は、当然、「感性」ではないものであり、そこまでの文章とは異なり感覚性が突如揮発するという落差も読みどころ。(三島由紀夫って東大法学部卒なんですね)
また、『奔馬』には、小説内小説とでもいうべきパートが内蔵されている。小説内小説は、端的に言うと、自分は大義を抱いていると思い込んだ人物が悲壮さに酔って書いた文章という立て付け。ただしその筋書き自体は、実は『奔馬』自体のメインプロットと同じ。つまり入れ子構造のような話なのだが、『奔馬』自体とはまた微妙にずらした視点や文体で書かれており、その絶妙な「下手さ」が「上手すぎる」。「同じ話」なのに、本文より、微妙に、「下手」なの! かなりのテクニックを感じる。
逆に、『暁の寺』は60年代の風俗を感じる娯楽小説的な文体で書かれている。取り入れられた当時の流行のモチーフは類型的、プログラムピクチャー的であり、きわめて「安手」で、「これを三島由紀夫が書く必要あるのか?」と思うほど。人によっては辟易すると思う。『暁の寺』は、プロット自体、正直言ってあまり面白くないし、その意味では、読んでいて退屈する。しかし、そんな中に本作のテーマである唯識論、仏教の歴史における転生の考え方の変遷の解説(独白というか、登場人物が独自研究を滔々と述べる部分)が混じり合っているのが特徴。本作の場合、描かれている出来事は(三人称視点にもかかわらず)、登場人物が阿頼耶識で捉えた世界として位置付けられているのも面白い。とあるひとつの出来事でも、人によって違うことが起こったかのように捉えられている。実際になにが起こったのかを誰も争っていないし、問題にもしていない、別にどうでもいいのがポイントで、そこがいわゆる「藪の中」とはまた違ったニュアンスになっているのも面白い。
『天人五衰』は前3作と比較すると、わりとプレーンで硬めの、純文学らしい文体。ある意味、これが三島由紀夫の素の文章なのかもしれない。

シリーズであるにもかかわらず、ここまで文体が異なっていることには戸惑いもあるが、作家としての力量とその幅の広さ、文壇のトップランナーとなっても通俗的なものも取り入れる意欲の高さを感じる。これを「普通に」(?)読んでいた、当時の読者層にも驚きを禁じ得ない。


個人的に面白かったのは、古典芸能の取り入れ。各巻に、歌舞伎、文楽、能、狂言がシーンとして、あるいはモチーフとして取り込まれている。

『春の雪』には、主人公たちが帝国劇場へ歌舞伎の『ひらかな盛衰記』を観劇に行くシーンがある。前述した通り、『春の雪』は主人公たちの感性がとらえた世界として描かれている。彼らの注意を惹くものは、その時々の風景をはじめ、指輪の装飾、衣類の裾の飾りや化粧の塗り具合、そこにある絵画のごくごく細部の描き方がどのようなものであるかまで、異様に微細に書き込まれているが、彼らの関心外のものはものすごくサラッとした描写になっている。
『ひらかな盛衰記』は主人公たちの興味を惹かないようで、「何やら鎌倉時代の武将たちが右往左往する」という説明しかなかった。どの場を見たのか一切わからないほどのざっくり表現だが、確かに、どの段のもすべて「何やら鎌倉時代の武将たちが右往左往する」話だな。私も、今後、『ひらかな盛衰記』のあらすじ教えてって言われたら、こう言うお。と思った。

2作目『奔馬』には能楽堂のシーンがあり、「松風」のストーリーと『奔馬』自体を重ね合わせた繊細な描写がある。また、最終作『天人五衰』は、「羽衣」「卒塔婆小町」をダイレクトに取り入れた登場人物造形がなされており、また、それが「叙述トリック」となっているのも面白い。

文楽は、3作目『暁の寺』に取り入れられている。主人公が新橋演舞場で行われていた文楽東京公演を見に行くシーンがあり、そこでは『加賀見山旧錦絵』と『近頃河原の達引』が上演されている。演目の内容がどうこうというより、当時、新橋演舞場の対岸には米軍に接収された旧帝国海軍病院(現在の国立がんセンター)があり、新橋演舞場に来る派手な身なりの芸者の客が、対岸に見える米軍傷病兵を嘲笑していることが物語上の要旨となる。
昔の文楽公演の劇評を読めば、どんな舞台であったかがわかる。書いてある内容で、当時流行りの「感想」の書き方がわかるし、評者が途中入場したと書いてあれば、上演中の出入りにユルい形態だったこともわかる。あるいは公演プログラムを読めば、館内食堂でどんなメニューが出ていたかがわかるし、広告欄から近隣の店の売り出し物がわかったりする。それでわりと公演の雰囲気を掴むことはできているかなと思っていたが、館外の商業的要素と関係のない街の様子がどのようであったかは知らなかったので、このくだりは面白く読んだ。こういう体感的なことは、演劇史文脈の資料ではなかなか見つけることはできない。国立劇場でいうと、外で弁当食ってると、異様に人慣れしたふっくら体型のスズメが10センチくらいの距離に寄ってきて、なんなら膝に乗ってきた、スズメ握力ある、みたいなことは残らないだろうなぁと思った。
それはいいんだけど、昼の部が「長局」と「猿廻し」という番組編成、渋すぎませんか。渋いっていうか、リアルすぎ。「長局」と「猿廻し」。ありえる。ありえすぎる。絶妙な地味さがなんとも生々しい。わかってる人が書いてる感ある。わかってない作家が「調べてみました」程度で書いたら、「寺子屋」と「尼ヶ崎」とかの、「それぞれ有名な演目ではあるが、番組編成としてそうはならない」組み合わせを書いちゃうと思う。「長局」をのんびり見る描写とか、「長局」がどのような演目かわかっていないと書けないよなと思った。


最初に、〈豊饒の海〉は夢と転生をモチーフにした物語だと書いたが、全作読むと、たしかにその通り。「夢」と「転生」は隠しテーマではなく、意識的に繰り返し言及される。最初はそれらは別個のものとして物語中に存在している。次第にそれは混淆してゆき……、最後にどうなるのかは、ぜひ、全作通読して確かめていただきたい。

〈豊饒の海〉は、全集『決定版 三島由紀夫全集』の13巻と14巻に収録されている。
14巻には、三島由紀夫が〈豊饒の海〉を書くために準備した創作ノートの翻刻が収録されている。三島由紀夫は事前に綿密な取材を行い、構想を作っておくタイプだったようで、創作ノートはものすごいボリューム。147巻は全900ページほどあるうち、創作ノート翻刻だけで239ページもある。
本当にちょっとした取材のメモ書き(鹿がいた、とか)から部分的な下書きまで載っていて、創作ノートもかなり面白いので、「これから読む!」という方は、『決定版 三島由紀夫全集』で創作ノートも含めて読まれることをおすすめします。『決定版 三島由紀夫全集』は旧字旧かなで収録しており、ルビ、創作ノートのメモ書きなどに合拗音が使われているのも興味深いです。


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