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新訳堕落論
母親が飯を持ってこない。
こんなことは、この部屋から出なくなってからの32年で初めてのことだった。
一昨日持ってこなかった時は、また忘れているのだろうとだけ思っていたが、昨日も持ってこなかった。流石に今日こそはと思い、腹を空かせて待っていたが、待てど暮らせど飯は来ない。スナック菓子などで小腹を満たしてはいるが、流石に限界である。
部屋を出て、様子を確認すればいい、という話なではない。 何故なら俺は「引き篭もり」だからだ。
近頃は、引き篭もりでもない癖に、引き篭もりを自称するような人間が多い。ドキュメンタリー番組で引き篭もりが特集されていたので、どれ程のものなのか確認してみたが、深夜は部屋から出て、リビングに赴いたり、風呂に入っていたりなどしていた。挙げ句の果てにはコンビニにまで行く始末だ。
彼らは引き篭もりではない。ただの働いていないインドア派ではないか。彼らと我々引き篭もりは全く違う。彼らは我々引き篭もりの苦しみを知らぬのに、引き篭もりをアイデンティティとして享受してるに過ぎない。近年、西成の風景がレトロなオシャレスポットとして消化されているのと同じことだ。
その点で言うと、俺は真の引き篭もりである。もちろん軽々しくリビングになど行きはしないし、風呂には入らない。しっかりとこの八畳の自室から出ずに生活をしている。
喉が乾いた時のために、水やジュース、また、排泄用のコンビニ袋を常備している。
彼らには、頭髪が抜け落ち、すっかり荒野のようになってしまった頭や、排泄したコンビニ袋から立ちこめる臭いなどを経験することはないだろう。彼らが引き篭もりを名乗ることは我々への侮辱だ。引き篭もりには引き篭もりのプライドがあるのだ。
ただ、今回のようなケースは想定していなかった。
森には木があるもの、海には水があるもの。そういったこの世の前提と一緒で、親は子に飯を与えるものだと思っていた。哲学には前提の足場が必要である。どれだけ思考を巡らせたところで、この前提の足場が崩れてしまえば全ては机上の空論なのだ。
俺は、やはり部屋を出て様子を確認するべきなのだろうか。我々を侮辱する彼らと同じ人種になるしかないのだろうか。
いや、そんなことはできない。これは俺1人の問題ではないのだ。
俺には仲間がいる。
インターネットが普及して、最早生活の一部となったこの時代において、仲間を作るのに部屋から出る必要はない。
2ちゃんねるの小さなスレから始まった我々"カフカの会"は、その後Twitterを経てLINEのグループとなり、今や人数は50人を越える大所帯となっている。主な活動としては、SNSを通して、我々の日々の生活を発信することにある。
カフカの会は、スカウト性を取っており、所属している中でも歴が長い人間が幹部としてSNSで素質のある人間を見つけ、DMにて接触をはかり、我々の思想を共有する。この思想に共感することができた人間のみをLINEグループに招待するのだ。このLINEグループに入って初めてSNSのハンドルネームの後ろに@カフカの会をつけることができる。しかし、カフカの会の掟は厳しく、少しでも部屋から出ようものなら破門とし、グループからの退会と、今後カフカの会を名乗ることを一切禁じる。
もうすっかり後輩が多くなってしまったが、40年以上引き篭もりとして生活している先輩もいる中、今更幹部でもある自分が部屋を出ることは仲間への裏切りではないだろうか。カフカの会の幹部の中でも、自分は部屋を出たものにかなり厳しく当たってきた。
「今更外に出たところで社会で通用するはずがないのにも関わらず、社会に出ようとしたあいつは愚かだ。」
「外の世界に馴染めないから引き篭もりになったのに、全く中途半端な人間だ。」
などと、口酸っぱく後輩に言ってきた自分が、今更どうして部屋から出ることができるだろうか。
ふと、半年ほど前に部屋を出て破門となった幹部を思い出した。2ちゃんねる時代からカフカの会を支えた功労者であったが、「いつからでも人生はやり直せる」などと謳う安っぽい映画に感化され、あろうことか外に出てしまったのだ。年齢は俺と同じくらいだろう。外の世界でも生きられず、カフカの会と名乗れないまま、ただ惨めな無職のインドア派として暮らしていることだろう。
彼のハンドルネームを検索し、SNSにて近況を調べてみることにした。「もしかしたら自殺して、更新が止まっているかも」など考えると、少し戸惑ったが、裏切り者だ。仲間でもないものに今更同情の余地はない。俺は検索ボタンをクリックした。
そこに映し出されたのは、日々事業所に通い、社会復帰に向け準備を進めている彼の様子だった。どうやら今日は職員と就労に向けての面談を行ったようだ。遡る。精神科に通い、少しずつ夜に眠れるようになってきた過程、同じ引き篭もりだった友人ができるまでの過程、親が事業所に1ヶ月通ったことを記念してケーキを用意し、机を囲んで食事をするまで過程、過程、過程、過程…。俺が引き篭もっている間に、彼は様々な過程を踏み、着実に進んでいた。
気がつくと俺の目には涙が溢れていた。
大学受験に失敗し、人生の終わりを悟った俺は、この社会への希望を捨てこの部屋で一生を添い遂げることを誓った。定期的に「もしかしたらあの時なら間に合ったのではないか」と思う日もあったが、時既に遅しと思い、考えないことにした。俺の人生はずっと時既に遅しの連続だと思っていた。
「現役で合格できないともうダメ。」
「2浪までは最悪なんとかなった。流石に20歳を過ぎたらもうダメ。」
「20代は本当はなんとかなった。30歳を過ぎたら流石にもうダメ。」
本当にそうだったろうか。
俺は引き篭もることにプライドを持っていた。ただ、俺は引き篭もることで何の過程を踏んだのだろうか。ここに立ち止まることこそが美徳としてきたが、それは美徳ではなく、本質は恐れではなかっただろうか。
今からでも遅くないは嘘だ。もう遅いことに変わりはない。ここまで来てしまっては流石に同い年の人間と比べ出遅れてしまったことまで無かったことにはできない。ただ、遅くとも今から始めるべきなのかもしれない。
俺は堕落する必要がある。
今まで積み上げてきた美徳から、今まで積み上げてきた苦しみから、今まで積み上げた信頼から、全てから堕落し、俺は底辺の人間として生き始める必要があるのかもしれない。
そもそも、底の底まで来ているのだ。今更何を恐ろしいことがあるだろうか。
大学受験に失敗した時は、親からの期待、周囲の目、様々な積み上げがあり、そこから落ちるのが怖くて、この八畳の別軸に逃げ込んだ。しかし、今ではもう足は地面にしっかりついている。ここから落ちるのはなかなか難しそうだ。そう。今なら、今なら外に出れるかもしれない。
俺は部屋の鍵を開けた。