命の軽さ、これから死のうとするとき

僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。(太宰治「パンドラの匣」より)

太宰がそう書いたように、命の軽さを自覚しながら、それをどう愛せばよいのか、葛藤する人々がいる。摂食障害の人たちが、体をひたすら軽くしようとするのも、現実の重さに見合わない自分の物質的存在感を希薄にして、受容し、愛そうとする、苦肉の策なのかもしれない。

児童文学者の久保喬は、若い頃、酔った勢いで、太宰にこう質問したという。
「これから死のうとするときは、どんな気持ちになるものだい」
すると、太宰は、
「ほおっとするような気持になるよ」
そして、久保に、
(何か重いものを背中に背負っていて、それをやっとおろして解放されたというような気持)
だと、説明したらしい。

重すぎる現実を背負うには、軽すぎる自らの存在。自殺をめぐる真実の一端が、表現されてる気がして、紹介してみた。


(初出「痩せ姫の光と影」2010年6月)


この記事に当時、こんなコメントをくれた人がいる。

太宰治好きです。『人間失格』は何度も読みました。
命の価値観は人それぞれですから難しいですよね。あたしはきっと死ぬときってふわっと逝くんだと想うんです。今までの苦しみは捨てて逝きたいですね。
太宰先生の言葉、まさにあたしの言おうとしていたことですね。今背負っているものを全て捨てていく感じ。

その人のブログに、さっき飛んでみたら、2013年の2月に更新がストップ。最後の記事は「ずっと眠っていたい。なんか、むり。」と結ばれていた。


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