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「ぽらんの恋」(1)

トントンとリズミカルに野菜を刻む音。火にかけられた二たつの鍋からは、おいしそうな匂いがして、コトコトと何かを言い合っている。炊飯器はシュッシュと 一生懸命にご飯を炊いていて、そこへ電子レンジが「チン!」と快い音を立てて合図する。そして、鼻歌まじりに楽しそうに料理をする野原(のはら)の姿を、いつも僕は冷蔵庫の前に座ってみている。

 木造の古い大きな家に、ぼくは野原と住んでいる。たった二人っきりしか住んでいないこの家は いつもがらんとしている。唯一、この家がにぎやかに活気づくのは、彼女が台所で料理を作るときだ。

 今朝も野原は台所に立って、朝食を作っている。パンをトースターに、 コーヒーをコーヒーメイカーにセットして、彼女は冷蔵庫を開けようとしたその前に座っていたぼくは、ドアを開けやすいように頭をさげた。     「おりこうさん」                          野原はやさしく頭を撫でた。ぼくはうれしくて大きなしっぽが、ぱたぱたと揺れた。

 彼女が冷蔵庫を覗いている間、頭の上は冷気です~っとする。これは夏はとても気持ちがいいのだけれど、冬はかなり寒い。一度、冬に野原がフリーザーを開けたまま、晩ご飯のおかずを長い時間考えていたものだから、その下にいたぼくの頭には、霜が降りそうになったことがあった。

 そう、ぼくは犬。2歳の茶色のむく毛の犬。なまえは「ぽらん」という。 ぼくがこの家に来たのは 野原が大学生になる年だった。子犬だったぼくは、あれからあっという間に大きくなって、今では二本足で立つと小学一、二年生の子供より大きくなってしまった。そんなぼくを見て、初めはみんな怖がるけれど、気は優しくて力持ち、ちょっぴり抜けているところもあるけれど、それはご愛嬌。すぐにみんなと仲良くなれる。 ぼくのモットーは、みんなと仲良しになることだ。

 今日は新学期。野原にとって大学二年目の春。やわらかく眠たげな春の陽ざしが、台所いっぱいにこぼれていた。いつもより早い朝の目覚めに、ぼくはあくびをしようとしたけれど、冷蔵庫の冷気が頭から降りて来たので、いっぺんに眠気が吹っ飛んでしまった。                   野原が冷蔵庫から卵を取り出した。ぼくは次に何をとりだすのか推理して みる。その時、耳がピクンと反応した。                 「とろけるチーズだ!」                       玉子にとろけるチーズとくれば、これはもうぼくの大好物のチーズオムレツに決まっている。頭の中は、すでに黄色いふわふわしたオムレツでいっぱいだった。

 野原がボウルに手際よく片手で玉子を割っていく。その音を聞いて、ぼくは居ても立っても居られなくなった。流し台の前に立ている野原の側に行くと、きちんとお座りをして、彼女の手を見上げた。           「上手にわれるでしょ」                       野原は自慢げに言った。 ぼくは、見せて、見せて!と、流し台に思わず前足をかけた。「あ、しまった!」でも、もう遅かった。 「だめでしょ」 ぼくはしょんぼりして、野原の足元に伏せをした。思ったと同時に、体がそっちの方に向いてしまっているのだ。そいう時はたいてい、野原に怒られてしまう。なかなか自分の思った通りに行動できないのが、なんとも犬のつらいところだ。

野原はフライパンにバターをひくと、溶いた玉子を注いだ。ジューッと焼ける音がして、バターの香ばしい匂いが広がった。ぼくはその音に耳を傾け、美味しい香りが広がってゆくのを自慢の鼻で満喫する。そこへとろけるチーズをいれて、野原は手際よくフライ返しでオムレツの形に整えてゆく。  そのとき、ちょうどタイミングよくトースターからパンが顔をのぞかせ、コーヒーの香りがダイニングキッチンに広がる。野原はフライパンをひっくり返すとオムレツをのせ、大きなマグカップにコーヒーを注いだ。

 ぼくの鼻がくんくんと鳴った。そして、野原はいつものように忘れずに、冷蔵庫からトマトケチャップを取り出した。

 いつも野原がご飯を食べるとき、ぼくは向かい合って椅子に座る。   目の前にできたてのオムレツが湯気を上げている。野原はケッチャプを手にして、オムレツの黄色いキャンバスの上に、大きな口でスマイルしている赤いリボンの女の子の顔を描いた。                   「いただきます」野原は両手を合わせて言った。そして、ほんの少しオムレツをぼくに分けてくれた。ぼくはもう有頂天。野原が合図するまで、目の前のオムレツとにらめっこ。「よし!」という、野原の声と同時に、ぺろりと一口で平らげてしまった。もう大満足で鼻のてっぺんを舌でぺろぺろとなめた。それを見て、野原はうれしそうにオムレツを食べた。彼女はさっき描いたオムレツの女の子みたいな顔をしている。              いつも野原がオムレツにケチャップで笑った女の子を描くのは、自分を励ますためかもしれない。 ぼくは野原が笑うとき、そのオムレツに描いた笑顔みたいに笑う彼女が大好きだ。                      野原が幸せそうな顔をして食べている姿を、ぼくはテーブルにあごをのせて「今日も元気でがんばれ!」と、エールを送る。テーブルにたっぷりと降り注ぐ朝の光がくすぐったくて、ぼくは思わずくしゃみをした。      いつもと変わらないぼくと野原の朝だった。


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