「ぽらんの恋」(5)
「すみません、この辺りで茶色のむく毛の犬を見ませんでしたか。これくらいの大きさで、すごく人懐っこい犬なんです」 野原は両手を広げて、ぼくの大きさを示した。驚いたぼくは、そこから一歩も動けず、声をだすことすらできなかった。とっさに自分がぽらんだということを知られないように、ただ首を横に振った。何も言えずに突っ立ていると、「そうですか。すみませんでした」と、野原は肩を落として、ぼくの顔を見ることもなく、また辺りをさまようように歩きだした。
「ちょっと、待って」 その声に彼女は足を止め、力なく振り返った。その目はあの風の強い晩と同じ、光を知らない深海魚の目をしていた。 「きみの犬、逃げたの?」 勇気を出して声にしてみた。 「ずっと探しているの?」 野原は小さくうなずこうとしたが、涙が零れないように夜空を見上げた。 しかし、野原が目を伏せた瞬間、涙が雫となって足元を濡らした。 いま、この場所で野原と別れてしまったら、もうずっと会えないような気がした。 ぼくは必死の思いで、いっしょにいられる方法を考えた。そして、口を衝いて出てきたのは 「ぼくでよかったら、いっしょにきみの犬を探すよ」という言葉だった。 野原はそんな言葉が出てくるなんて想像もしていなかったせいか、しばらく信じられないといった様子で、じっとぼくを見つめていた。 「きみさえよければ、だけど…」 ぼくはそう付け足して笑ってみせた。 「ありがとう」 野原は少し照れて、涙を拭いた。 「ぽらんって言うんです」いきなり野原の口からぼくの名前が出てきたので一瞬、固まってしまった。 「あ、ごめんなさい。犬の名前なんです。夕方、たまたまいつもと違う道をぽらんと散歩していたら、川の向こうに見たこともない桜のトンネルを見つけたんです。煉瓦色の眼鏡橋を渡った川沿いに。わたし、あんなにうつくしい桜並木を見たことがなかったから、うれしくなって思わず駆け出してしまったんです。そして、ぽらんと追いかけっこしている間に、ぽらんを見失って…。逃げるような犬じゃないの。桜の花びらに気をとられているうちに、ぽらんが夢中になって走りだして」野原は夕方の出来事を話した。 「確か、この住宅地を抜けると、川があるはずなの。でも、何度行ってもこの公園に出てしまうんです」 ぼくもさっき、桜のトンネルへ行こうとして、何度もこの公園の前に出てきたのだった。
「ねえ、その川沿いにある桜のトンネルの場所をしっている?」 「ぼくも今日の夕方、その桜のトンネルへ行ったよ」 「じゃあ、そこへ行く道を知っているのね」 野原の顔が明るくなった。 「でも、」 「でも?」野原は不安そうにぼくの顔を覗き込んだ。 「あんまりきれいな夕暮れで、空を見上げて歩いていたから、気が付いたらその桜のトンネルに辿り着いていたんだ。だから…」 申し訳なさそうに言ったぼくの顔を見て、彼女はクスッと笑った。 「あなた、散歩するの好きでしょう」 ぼくがきょとんとしていると、 「私とぽらんが散歩するときもそうなの。散歩する道なんか全然決まってなくて、いつも気の向くままに歩くの。草の匂いがするからこっちとか、流れる雲を追いかけて行ったり、心を奪われるものに出会うと、そっちへ自然と足が向いてしまて、ずっと眺めていたかったり、そこへ辿り着きたくなるのあなたもあの夕暮れを見たのね」 「うん、それから、確かに煉瓦色の眼鏡橋も渡ったよ」 野原は目を輝かせた。 「ね、そうでしょ。桜のトンネルへ行くには、あの橋を渡らなくっちゃいけないのよね。でも、不思議。あなたもあの夕暮れに桜のトンネルにいたなんて」 野原はあの時、ぼくが同じ場所にいたことを知って、少し嬉しそうだった。 「ねえ、もう一度、そこへ行ってみようよ。ふたりだったら、そのトンネルに行けるかもしれない」「本当に、いっしょに探してくれるの?」「もちろんさ」
野原は協力者を得て心強く思ったのか、やっと安心した笑顔を見せた。 ぼくと野原は公園を出て、静かな住宅地を夕方歩いたように歩いてみた。 けれども、やはりさっきの公園に出てきてしまった。 「どうしてなの?やっぱりここへ出てきてしまう」 深いため息をついて、野原はしゃがみ込んでしまった。 「あきらめちゃダメだよ。ああ、でもどうすれば桜のトンネルに行くことができるんだろう。どこかに地図はないかなあ…」 「一度、家に帰ってみるわ。もしかしたらぽらんが戻ってきてるかもしれない。それに、家にかえれば地図もあるから」 ぼくたちは家へと向かって歩きだした。駅まで辿り着くと、さっきまで続いていた住宅街の目盛りのようになっている等間隔の電柱の明かりとは違い、人通りの多い駅前の明かりは、ぼくたちをほっとさせた。 途中、駅前に屋台を構えているたい焼き屋の前を通った時、ぼくの足が思わず止まってしまった。実は散歩の時に、この前を通る度に、香ばしくて甘い匂いのするこのたい焼きを食べたくて仕方がなかったのだ。 「よかったら、たべる?」野原が言った。
時計を見ると、もう、9時を回っていた。屋台のおじさんが、鯛の形をした鉄の型をひっくり返すと、きつね色にこんがり焼けたたい焼きが姿を現した「おじさん、たい焼きをふたつ」野原はポケットからお金を出すと 「ハイよ」と、おじさんはやきたてのたい焼きをふたつ紙につつんでくれたぼくたちは駅前の噴水に腰掛けた。野原から手渡されたたい焼きを、ぼくは夢心地で見つめていた。食べるのがもったいない。 「どうしたの?」不思議そうに野原は聞いた。 「食べていいの?」ぼくは聞き返した。 「もちろん。いっしょにぽらんを探してくれるお礼に、どうぞ」 ぼくはドキドキした。 「いただきます」大きな口をあけて、尾っぽがピンと上がった形のいいたい焼きを、一口ほおばると甘い甘い味が口の中に広がった。 「おいしい!」ぼくが感動して、あっという間にたい焼きを平らげたのを見て野原は「よかったら、これも食べる?」と言って、自分の分を差し出したぼくは慌てて首を振った。 「いいの。食べて、食べて」 たい焼きと野原の顔を見返して 「ほんとに、いいの?」と聞くと、野原はうなずいた。 「じゃ、半分づつしよう」 「うん」 「じゃあ、ぼくがしっぽで、君はあたま」 野原はひとくち食べて、何かを思い出したようにクスリと笑った。 「どうかした?」 「ぽらんを思い出したの」 「ぽらん?」 「そう、ぽらんはね、散歩の時に駅前を通ると、よく利く鼻で空気を探って、必ずあのたい焼き屋さんの前に行くの。一度、お土産に買って帰ったことがあって、そのたい焼きの味を覚えているみたい。いつもあの屋台の前でちょっと足を止めて すーっと息を吸い込むのね。そして、ちらっと私の顔を見て、買って欲しそうにするの。ぽらんはチーズオムレツとたい焼きに目がないのよ」
野原はおかしそうに笑った。その笑顔はぼくのしっている野原の笑顔だったふたりで食べるたい焼きは、本当においしかった。
最終章(6)へ続く