「ぽらんの恋」(2)
ある晩のこと。 野原は夕食をすませると、借りて来たビデオを観ていた。ぼくもソファーの下に座って、初めは野原につき合って観ていたけれども、途中で眠たくなって、うとうとと眠り込んでしまった。 どれくらい眠っただろうか。ビデオを巻き戻す音で目が覚めた。何も映っていないテレビの画面を、野原はじっと眺めていた。ビデオを観終わった余韻でも浸っていたのだろうか。テープを巻き戻す一定のリズムだけが、この大きな家に響いていた。家の中にあるもの全部が、もう深い眠りについてしまったみたいだ。柱にかかっている古い時計でさえ、ひっそりと時を刻んでいる。 ぼくは立ち上がると、ぶるっと首を振った。それに気づいた野原は、 ぼくの頭を撫でると、洗面所へ行った。
居間のガラス戸がカタカタと鳴っている。外は風が強い。ぼくは窓のそばに歩いていき、カーテンに鼻を近づけた。今夜は雨が降りそうだ。そこへ野原が戻ってきて、カーテンを少し開けて外の様子をうかがった。 「今夜は風がきついね。桜の花が散ってしまわなければいいんだけれど… もうおやすみ、ぽらん」野原はぼくを見て言った。そして、カーテンを引くと、居間の明かりを消した。
ぼくは部屋を出て玄関へ行くと、下駄箱の下に頭を突っ込んだ。ぼくのお気に入りの寝床はここだ。野原の匂いのするものが近くにあると安心して眠れる。 まだ小さかった頃は、野原と一緒に寝ていたけれど、こんなに大きくなってしまったら、野原のベッドをぼくが占領してしまうことになる。朝起きると、彼女が下で寝ていることがしばしばあってから、野原は寝る時に ぼくを部屋の中に入れてくれなくなった。
しばらくはちょっぴり淋しかった。だって、こんなに体が大きくなってしまったけれど、やっぱりまだ子供だ。時々、淋しくて目が覚めたり、怖い夢を見たときは、野原恋しさに部屋の前で眠ることもある。でも、最近は少しは強くなって、そういうことは随分と少なくなったけれど…。
眠りかけたとき、玄関の扉からヒューッという不気味な音がした。扉から入って来る隙間風が、さっきよりひどく鳴っている。ぼくは怖くなって、そばにあった野原のスニーカーを片方くわえてぎゅっと目をつぶった。
この風の音をきいていると、記憶がよみがえってくる。
寒い真冬の夜、ぼくはダンボールに入れられて捨てられた。兄弟たちはみんなもらわれていったのに、ぼくは誰にももらわれることはなかった。 そして、銀色の橋の下に捨てられた。たった一人ぼっちでそのダンボールの中でうずくまっているしかなかった。寒さと不安に襲われ、さっきまであたたかいお母さんのミルクを飲んでいたそのぬくもりを、四角いダンボールの中に探し求めた。夢中で誰かを呼んでいたけれど、誰も来てはくれなかった次第に諦めと寒さから、もう声を出すことすらできずにただ震えていた。
このまま死んでしまうのかもしれない。誰にも知られることもなく、自分の存在がこの世にあったことすら気づかれずに。
北風が容赦なく何度も体を突き刺した。お腹が空いていた。そして、寒かった。暗闇が怖かった。けれども、何よりたまらなかったのは、ぼくは誰にも愛されていないと言うことだった。ぼくは最後の力を振り絞って叫んだ。 自分自身の存在を知らせるために。
「ぼくはここにいる!誰か、誰か、助けて」 けれども、ダンボールの中から見上げる空は、四角く切り取られた暗闇に、鋭い三日月が白く光っているだけだった。「もう、ダメかもしれない…」 そのとき、柔らかいものがぼくの上に覆い被さった。次の瞬間、体がフワッと宙に浮いて、ぼくは抱かれていた。赤いマフラーに包まれて。ぼくは何度も何度もそのマフラーの匂いを貪るように嗅いだ。
黒い大きな瞳が愛おしそうにぼくを見ていた。それが野原だった。彼女の顔がぼくの顔に近づいてきたので、その顔をぺろぺろと舐めると、くすぐったそうに顔をくしゃくしゃにして彼女は笑った。ぼくも嬉しくてうれしくて、小さなしっぽを一生懸命に振って、体中で野原のぬくもりを感じようとした
その時、笑っていたはずの彼女の目から何か光るものが落ちてきた。 ぼくがそれをいくら拭っても、そのきらきらと光るものは止まらなっかった野原はぎゅっとぼくを強く抱きしめた。そのとき、ぼくは初めて知った。 それが涙というもので、こんなにもしょっぱく、ほろ苦い味がするのを。 ぼくと野原はお互いのぬくもりで救われたのかもしれない…。
いつのまにかぼくは眠りについていた。野原の温かい腕に抱かれて眠っている夢を見ていた。 台所で何か物音がした。目を覚ますと明かりがついている。ぼくが体を起こして、そっと覗いてみると、流し台に伏せっている野原の姿を見つけた。 こっそりと足音を立てないように歩くのに、爪が伸びているせいでカチカチと音がする。足音に気づいた野原は、顔を上げるとぼくを見た。その目は光を知らない深海魚のような目をしていた。 「のはら…」 溢れる涙をこらえるように、野原は目に涙をいっぱい溜めてぼくをみつめた。そして、ぼくがそばに行くなり、彼女はぼくに抱きついて泣き崩れた。
びっくりした。ただ、子どものようにしゃくりあげて、いつまでたっても泣き止まない野原の熱っぽい体を、ぼくは支えてあげることしかできなかったようやく落ち着いたかと思うと、また思い出したように泣きだすのだった。
外は雨が降り出していた。まるで野原をなぐさめるように。雨の音が静かな夜の闇にそっと響いていた。
野原の抱いている哀しみは一体、どこから来るのだろう。どうして彼女は この家に一人で住んでいるのか、ぼくはその訳を知らない。 野原はよく真夜中に突然、こんなふうに泣き出すことがある。心の中の何かを抱えきれなくなって、それをいっぺんに涙に変えてしまう。ぼくが野原に出会って救われたように、彼女がその哀しみから救われることはないのだろうか。それはときどき静かにやってきて、心の奥底から湧きだしてくる。
台所の窓から朝日がうっすらと射し込む頃、ようやく野原は泣き疲れて、冷蔵庫にもたれたまま眠ってしまった。その横顔は、まるでこどものように安らかな寝息をたてて眠っている。ぼくはその寝顔を見てやっと安心した。 彼女は今、どんな夢を見ているのだろう。せめて夢の中だけでも、愛する誰かと一緒に居てほしかった。
ぼくは野原を起こさないように、そっと体勢を変えた。すらっとした足を投げ出して眠っている身長の野原に、ぴったりと背中をくっつけてぼくは横になった。
雨は朝焼けと共に、土へと返っていき、ゆっくりと世界が動き出していた。 時折する冷蔵庫のモーターの音。それに古い柱時計の音。うっすらと夜が明けるその気配が、ぼくたちを孤独から救っていた。
ぼくは野原の静かな寝息を背中に感じながら、その野原の哀しみを分かりたいと思った。