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「ぽらんの恋」(3)

きょうもやわらかな太陽の光が、縁側のガラス戸から注ぎ込まれていた。 野原が大学から帰って来るまでの間、ぼくは日向ぼっこをしようと思い、居間にある縁側へ行った。

 ガラス越しの春の陽射しはまぶしくて、ぼくは目を細めて横になった。 外はまだ少し寒い。けれども、ガラス戸が閉まっていたこの部屋は、四月の太陽が降り注ぎ、ぽかぽかと暖かだった。

 部屋が夕陽でオレンジ色に染まる頃、ようやく野原が帰ってきた。帰りを待ちわびていたぼくは、さっそくリードをくわえて、「散歩、行こう」と、野原を誘う。彼女が部屋で着替えをしている間、ぼくはぐいーっと伸びをして、後ろ足も片方づつ伸ばして準備万端で待っている。着替えを終えた野原は、玄関でお座りをして待っているぼくに リードをつけてくれた。

ぼくは上機嫌。大きなしっぽが動くので、床にあたってコンコンと音がするそして、野原を見上げて、Goサインをいまか、いまかと首を長くして待つ。「行くよ、ぽらん」

 野原との散歩。ぼくは彼女の歩調に合わせて歩く。もう、日が暮れかけ、空気はツンと冷たく冴えていた。春になって草花が生えるときに土が掘り起こされるその匂い。木々が芽を吹くときの若葉の匂い。昼間はあんなに光がまぶしかったのに、春のエネルギーに満ちた太陽は、土の匂いを残してどこかへ行ってしまった。春なのに、こんな夕暮れはどこか人の温もりが恋しくなる。

 近くの公園を抜け、大きなけやきのある通りに出た。駅前の商店街を通ると、夕食のおかずを買いに来る人や、両手に重そうな買い物袋をさげている人々でにぎわっていた。人混みを抜け、ぼくたちはうつくしい夕焼けを見上げながら、いつもと違う道を歩いた。

 静かな住宅地を歩いていると、川に突き当たった。そこで見たものは、 満開に咲いた桜のトンネルだった。そこだけが、現実の世界から浮かび上がっていて、まるで別世界だった。くっきりと、けれども、儚く淡く浮かび上がる桜の花。煉瓦色の眼鏡橋を渡ると、桜のトンネルの隙間には夕陽に染めあげられた蜜柑色の空があった。

 風が吹くと、ここで一枚、あそこで一枚と桜の花びらが散ってゆく。  ひんやりと冷たい風が頬を撫でる。幻想的だった。桜の花たちは、この一瞬を輝かせるためだけに潔く散ってゆく。 その光景を見ていると、目の前の現実が不確かなものに思え、まるで夢でも見ているような気さえした。   そのとき、ひらひらと目の前に花びらが落ちてきた。ぼくは足を止めて、地面に落ちたその花びらをそっと匂いでみた。ほのかな香りがした。    ああ、またあそこで、花びらが散ってゆく。             「きれいだね」                           野原を見ると、彼女もぼくを見ていた。そして、いたずらっぽく笑って駆け出すと、彼女はゆらゆらと宙を舞いながら落ちてゆく花びらをつかまえようとした。そんな姿を見てぼくもはしゃぎたくなった。         「ぼくにもつかまえさせて」  ぼくは野原に飛びついた。       「きゃっ、ぽらん。そんなに飛びついたら、うまく花びらをつかまえられないじゃない」 彼女は無邪気に笑った。 あのオムレツの笑顔のように。 ぼくはうれしくなって、心の底から大きな声で吠えた。

 その時、とつぜん強い風がどこからともなく吹いて来てぼくたちの間を 駆け抜けた。と、同時に、一斉に桜の木がさわさわと音をたて、雪のように桜の花びらがはらはらと降ってきた。ぼくは目の前に落ちてきた何枚もの花びらを つかまえようとした。                   「パクッ,パクッ」大きな口をあけて、キャッチしようと試みる。 でも、なかなかうまくいかない。野原はそれを見て、コロコロと笑った。そして、両手を大きく広げると、次から次へと降ってくる花びらをつかまえようとした。花びらは、ぼくたちがつかまえられないのを楽しむかのように「ほら、つかまえてごらん」と、からかいながら舞い落ちてゆく。        野原は夢中になって、桜のトンネルの下で花びらと戯れていた。そんな楽しそうな野原の姿を見ていて、ぼくはしあわせだった。

 野原が抱えている哀しみを、今、このほんの一瞬だけでも忘れてくれればいいのに…。ぼくは野原をいとしいと思った。そして、いつまでもずっと、いっしょにいたいと思った。

 ぼくたちは駆け出した。長い桜のトンネルを息を弾ませ、どこまでも 二人で走った。 辺りは太陽が沈んだ余韻に、夜の深く蒼い闇が溶けあっていた。

 うつくしい時刻(とき)だ。人々が家路に急ぐ。会社帰りの人々、外で遊んでいた子どもたち。お腹を空かせ、夕ごはんのおかずを楽しみにしながら、足早に自転車をこぐ。こんなにうつくしい時刻があるなんて、気にも止めずに…。

 昼でも夜でもないこの一瞬。太陽が沈んでしまったあとの、ほんの数分間だけ地上に光が残るその瞬間。

 こんな夕暮れに、奇跡は起きるのかもしれない…。

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