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「ぽらんの恋」(4)

ぼくは銀色の橋に立っていた。 人間の姿で。              そこは野原と出会った場所だった。ぼくはその橋の下へ降りてゆき、野原がいないか辺りを探した。しかし、野原の姿はどこにも見当たらなかった。 もう、とっくに日は暮れていて、空を見上げると、遠くで月が川面を照らしていた。

 野原とはぐれてしまったらしい。ぼくは急に不安になった。 どうして、こんなところまで来てしまったのか思い出そうとしたけれど、うまく思いだせない。きっと、野原も探しているだろう。もしかしたら、あの大きな家で一人ぼっちで泣いているのかもしれない。

そう思うと、いてもたってもいられなくなった。ぼくは雑草が生え茂っている土手を駆け上がると、全速力で走り出した。そして、銀色の橋を渡って、野原の住む家を目指した。                       走っている間に、何人もの人たちとすれ違ったけれども、道路に段差があったことに気づかずに、ぼくは思わずつまずいて転んでしまった。    「痛って―っ」                           その時、口を衝いて出てきた自分の声に驚いた。これがぼくの声?ゆっくりと口を動かして、もう一度、気持ちを声にしてみた。         「会いたい、のはらに…」                      自分の声を噛みしめてみる。人間の声だ。信じられなかった。さらに驚いたのは、立ち上がったとき、店のショーウインドウに映っていた少年の姿だった。18,9の少年がぼくだった。ナイキのロゴ入りのシャツにGパン。足にはちゃんとスニーカーを履いていた。これがもし裸だったり、とんでもない鎧兜を身につけていたら一大事だ。すぐに警察に捕まるか、テレビか映画の世界になってしまう。                      「しっぽは?」                           ぼくは後ろを向いた。なかった。ほっと胸をなで下ろした。この格好なら、誰が見ても、ぼくがさっきまで茶色のむく毛の犬だったなんて、気づくはずがない。

 とのかく、ぼくは野原に逢いたい一心で、訳もわからないまま再び走りだした。夜の冷たい空気を吸い込むと、汗ばんだ熱っぽい体とは反対に、思考だけが冴えてくる。走りながら、野原のことばかりを考えていた。

 人間の姿になったぼくが、野原の前に現れたらどうなるだろう。 彼女はぼくだと気づいてくれるだろうか。野原に会ったら、なんて」声をかければいいのだろう。ぼくだって、どうして人間になってしまったのかわからないのに…。

 家の近くまでようやく帰って来ると、ぼくはますます不安になって、足が重たくなった。                            ポストのある角を曲がると、もう家だ。そっとその角から覗くと、家の明かりがついていない。ぼくは駆け寄って家の様子をうかがった。     「どこへ行ったんだろう…」                     震える手で呼び鈴を鳴らしてみた。けれども、野原は出てこなかった。  ぼくは再び走り出した。そして、思いつく場所を探しまわった。いつも一緒に散歩をする道、ときどき、連れて行ってくれる本屋やコンビニも覗いてみた。夕方、散歩で行った児童公園、それに大きなけやき通りや駅前の商店街も。 けれども、野原の姿はどこにもなかった。あと思い当たる場所と言えば、あの桜のトンネルしかなかった。

しかし、そこへ行こうとするのだけれど、どういう訳か同じ場所に出てしまう。川に突き当たるはずの住宅地の中は、同じ形をした家ばかりで、まるで迷路のようだった。

 ぼくが犬だったら、どう行けばいいのか自慢の鼻がちゃんと教えてくれるのに、いまは鼻が利かなかった。それに、ずっと走り続けていたので、もう足がいうことをきかず、のども渇いて焼けるように痛い。 目の前にあった公園でひと休みしようと歩いていくと、ありがたいことに小さな水飲み場があった。ぼくはむさぼるように水を飲むと、さっき転んだときにできた傷を洗った。水はひどく傷に染みた。                  「のはら、逢いたい。一体、どこにいるの?」             心が締め付けられた。気がつくと、ひとすじの冷たいものが頬に流れていた。それを慌てて手で拭った。野原に抱きかかえられたあの時、彼女の頬にながれたあの味だして、ぼくは思わず息をするのも苦しくなった。痛みをこらえようとするのに、それは次から次へと流れ出てくる。

 もう野原に逢えないかもしれない。さっきショーウインドウに映っていた自分の姿を思い出すと、もう家には帰れなかった。そこにいたのは、野原の知らない人間のぼくだった。野原にとって、もうぼくは見知らぬ人でしかないんだ。そう思うと、心がたまらなく痛かった。

 あきらめて公園をあとにしようとしたとき、後ろから声がした。聞き覚えのある声に振り向くと、そこに立っていたのは野原だった。


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