ご近所事情
15年前おじいさんを亡くし、2年前娘を病で亡くしたおばあさんがおりました。一人ぼっちになったおばあさんに残された心の癒やしはピアノを弾くことでした。 ピアノを買ってから55年、おじいさんや娘の看病で 長い間 ピアノを弾かないで置いていたので、ピアノは相当痛んでいたのです。 おばあさんは新しい音色を楽しむために、思い切ってピアノを修理に出しましました。そして、2週間後ピアノは真新しい元気な音で帰ってきたのです
楽しみにしていたおばあさんは 早速 昔、弾いていた曲を弾き始めましたたどたどしくも何とか曲を弾いていると電話がなりました。おばあさんは ピアノの手を止めて受話器を取りました。
「もし、もし」 プツン! おばあさんは「?」
それを何回か繰り返し、ハタ!と気が付いたのです。 裏のお宅に認知症のおじいさんがおられる事を!
おばあさんは すぐ、調律師さんに相談し、ピアノに吸音装置を付けることにしました。そして、調律師さんにピアノを弾いてもらい、裏に回って音を聞いてみました。
残念ながら、音は全く聞こえなくなったわけでなく、微かに聞こえる程度に小さくなっていたのですが、これぐらいならクーラーや雨で窓を閉め切っている日が多いので、ゆるされるかな?と思いました。が、なんとなく落ち着かなくなり 又 ピアノを弾かなくなりました。
でも、おばあさんにもしても 残された時間はそう長くはありません。 おばあさんのさみしさを紛らわすためにお金をかけて修理までしたのに…。おばあさんはピアノを弾きたい気持ちでいっぱいでした。 どうにかしてピアノを弾けないものか…? どうしたらお互い気持ちよく余生を過ごすことが出来るのか? そればかり考えておりました。
そうしたある日、裏のおばあさんが夕餉の仕度をされるコトン、コトンというまな板と包丁の音に気が付いたのです。今まで夕餉の仕度の音を聞くと気持ちが和んでいたおばあさんは「そうだ! 夕餉の仕度の時間に気持ちのいい曲を弾けば…?」そう、思いついたのです。
それは ドビュッシーの「月の光」でした。
この曲ならどんな人も気持ちが和む!と、確信したのです。
裏の家の台所で水の音やまな板のコトン、コトンという音が聞こえてきたら、おばあさんはゆっくりとピアノに向かい「月の光」を弾き始めます。
その日から電話もかからず、初秋の黄昏時のやわらかな時間が流れるようになりました。