世の中を渡り歩く【資本主義社会】
今から思考実験をしていく。
この世界を一つのゲームとして見立てた時、僕らプレイヤーはどのような振る舞いができるのかについて。
前提として、僕たちの思っている常識は、誰かが作ったものであるという仮定で話を始める。
誰かが作ったというと、意図して作ったように聞こえるが、実は違うと思う。
理由は、そんな難しそうなことをできる人はいないと思うから。おそらく成り行きでそうなっただけというのが結論である。
もし仮に狙って作っていたとしても、原因が意図的だったかどうかというだけで、現実に起きている現象は変わらない。なので今回は議論しない。
今回の議題は次の2つとする。
①今の社会の仕組みについて
②僕らの立ち位置と役割について
この2つについて考えていく
今の社会の仕組みについて
2021年。今の世界は資本主義が優勢となっている。その理由は生産性が高いからだと思う。
ゆえに、現在、力の強い国は全て資本主義社会であり、中でもIT産業を筆頭とした各主要産業によって成されている。
昔は肉体的な暴力だけで勝つことができたが、現在は情報を駆使した見えない暴力が勢力を誇っている。
では、この資本主義はどのような構成で成り立っているのか。社会を構成しているのは次の2つの要素であると考えて話を進める。
社会の構成要素
・組織
・個人
つまり、個人を最小単位として集まることで組織となり、その組織がさらに集まることで社会となる。
これが今の地球で起こっている現象だ。現段階で最も力が強いのは、人間が集まってできた社会である。これが昔は恐竜だったり、ウィルスであったりした。
実は裏で、ウィルスや人間以外の生命体が勢力図を覆そうと企てているかもしれないが、その話はとりあえず置いておく。資本主義社会について話を戻そう。
社会の最小単位である個人には次の3つの属性がある。
・資本家
・経営者
・労働者
中にはこれらの属性を併せ持つ人もいる。例えば個人事業主(フリーランス)は経営者と労働者の2つの属性を持っている。これらの属性はピラミッド状に、分布している。
つまり、資本家 < 経営者 < 労働者 の順に数が多くなる。だからほとんどの人は、単に労働者である。
(いや、よく考えてみるとニートや学生、子どもが隠れている。ちょうどピラミッドの近くに置いてあるスフィンクスのような存在である。この人たちはどの属性も持たない第四の勢力と言えるかもしれない。しかし資本主義社会における力、資本を持たないため、この話は後にとっておくことにする。話がまた逸れるが、「未来」や「可能性」といった未知の力を秘めているこの第四勢力が次の勝者になりうると考えている。)
こうして見てみると、まるで資本主義社会に背を向けた番人のようである。幸いピラミッドからはそう遠く離れていない。
資本家と経営者と労働者。現状この3つはじゃんけんのような三竦みの関係ではない。ご存知の通り、単に上から下に一方向的な力の序列を作っている。
資本家は経営者を支配し、経営者は労働者を支配し、労働者はより地位の低い労働者を支配する。そして社会で打ちのめされた地位の低い労働者は、内弁慶的に家庭内で切れキャラになっていたりする。
つまり、労働者1人対、資本家1人では闘いにならない。昔なら手で殴れば勝てたかもしれないが、今やそんな革命家はいない。
長くなったので、ここで少しおさらいをしておこうと思う。
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①この世界の構成要素
社会→組織→個人
②個人の属性
資本家→経営者→労働者(→不労者)
③力の象徴
資本(お金などの資源)
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これで今の社会の仕組みと勢力図について説明できた。次にこのゲームの立ち振る舞い(主に労働者)について考えていく
僕らの立ち位置と役割について
ここで、まだ伝えていなかった事実をお話ししたい。僕は今現在、個人の3つの属性のうちどれも持っていない(過去に労働者を経て、個人事業主をしていたことがあるので、一応労働者の気持ちは分かる)
僕らはピラミッドで言うところの下層に位置する。昔は奴隷と呼ばれていた下々の人間である。
しかしこれは馬鹿にしているとかそういうことではない。どんな構造物も基礎となる土台があって成り立っている。つまり、労働者がいなければ、経営者や資本家というポジションは存在せず、資本主義社会も成り立たないと言うことを忘れないでほしい。
しかしながら、やっていることと言えば、古(いにしえ)から奴隷がやっていたことと同じであると言うことも同時に理解していただきたい。
結局のところ、今の社会の仕組みを実現に至らしめたのは、実際的に労働者である。
しかしここで問題なのは、労働者がエライとか、こき使われているとか、そういう道徳の話ではない。
資本主義社会が抱える問題点が労働者にあるということである。
初めに話した通り、資本主義というイデオロギーはその性質上、生産することを止められない。
だから、必ず労働者が駆り出されるのだ。ここが問題のポイントである。
機械や人工知能がそれを代替しているではないかと思う人もいるかもしれないが、実際に手を動かして作っているのは労働者である。いかに自動化が進もうとも、どこかで人の手が必要となる。
また資本主義社会の問題点として、経済危機が起こるということも挙げられる。やはりここでも不況の煽りをダイレクトに受けるのが労働者なのだ。
労働者は、ピラミッドで言うところの基礎であるはずなのに、社会が機能不全に陥ると真っ先に切られるという、変わった性質を持っている。
資本主義社会は上手に回らなくなると、縮退運転をしながら、自分の手足を切り始めるのである。
いわく、また生えてくるから問題ないのだ。
「お前の代わりなどいくらでもいる」
そう言われたことがある人や、言ったことがある人が思わずドキッとする言葉だ。
働いていない僕が言うのもおかしいけれど、人間の数には限りがある。正確に言うと「部品化された仕事を任せられる労働者はいくらでもいるかもしれないけど、無尽蔵にいるわけではない」である。
それは、困った時にはニートや子どもを働かせると言う意味を含んでいるのだろうか?
言っておくけど、ニートは人の代わりには働かないぞ!自分にしかできない価値のある仕事でなければ、やりたいと思うわけがない。
部品を作る部品の仕事をしたがっているニートは、僕は1人も見たことがない。
それよりも先に、引退した高齢者を機械でアップデートして働かせればいい。
それでも人手が足りないというのなら仕方がない。こういう固い意志を持った者たちがニートであるということは既に周知の通りだ。であるからこその第四勢力なのだ。
彼らは高齢者とは違って、1人で飯を食うし、風呂やトイレも1人で済ませる。お金さえあれば、そこまで手のかからない人たちだ。
転ぶのが怖いから着いてきてくれとか、手が後ろに伸びないから代わりにやってくれとか、そういうことを言い始めたら本当の意味でお荷物になるだろうが、現時点においてその心配はない。
蛇足が過ぎたので、一旦話を元に戻す。
資本主義社会は多くの労働者によって豊かになってきたが、機能不全に陥ると労働者を切り始める変わったイデオロギーだ。
代わりがいくらでもいるから、大事にされていない。
この点が資本主義社会の矛盾を生み出す。つまり全体として、社会は豊かになるが、個人の格差が広がる。
構成員の下の方は初めから豊かにする気がないのだ。
「最大人数の最大幸福」とはいえ、はなからやる気がないのではヘイトが募るばかりだ。
アイツらばっかりいい思いをしやがって。
ちょっと出世したからって調子に乗りやがって。
インターネット上の一部の界隈では、そういう吹き溜まり的なコミュニティが形成されている。
お互いがお互いを監視し合い、足を引っ張り合う。自分より上手くいった人間がいるとそれだけで不幸になった気がする。
こういうことが資本主義社会の下の方で起こっている。
少し長くなったが、これが僕らの立ち位置である。次に、僕らの役割について論じたいと思う。
僕らの役割は「労働」である。我々の資本的価値は、人間一人あたりがもつ「労働力」である。人的リソースと言う人もいる。
要は経営者に対して、労働力という商品を売ることを生業としている階級である。
この階層では、未だに「働かざる者食うべからず」という標語が掲げられている。それほどまでに仕事に駆り立てられているのだ。しかしこれは戦後の食糧難の時代に言われていたことだ。
今の社会はもうそんな段階ではないのではないだろうか。
働かざる者は社会保障によって、最低限(それでも充分すぎるくらい)生きることができるのに、それを知らなかったり、プライドが邪魔して受けられない人がいるのはなぜだろうか。なぜ社会人の多くが社会についてよく知らないのだろうか。
また、多くの人はあまり口にしないけれど、僕らは毎日食べ物を捨てているし、服も捨てている。なのになぜか、プライドは捨てられない。
食べ物や服を買うのにはお金がかかるのに、一円にもならないプライドを捨てられない。
今や資源は捨てるほど余っているのに、どうして「働かざる者食うべからず」と言えてしまうのだ。捨てるくらいなら食べた方がいいに決まっているではないか。処分するのにもお金がかかるんだぞ。
この標語は今後、こう変えたらどうだろうか。
「働かざる者、廃棄食品を取りに来なさい」
令和はこれで行こう。腹一杯、そして目一杯食べるがいい。
働きたくないものは、廃棄予定の食品をもらいに行くということが仕事になればいいのではないだろうか。(しかし、そうすると商品の価値が下がるからダメなのだそうだ。なんてことだ。)
何かと話が逸れてしまうのは、愛嬌ということにしていただいて、本筋に戻りたいと思う。
我々は自らを商品として売っている。その対価として給料をもらい、日々の生活にあてている。
いわゆる「労働」することを、役割として期待されているのだ。
何が言いたいのか、伝わっていないかもしれないので、一旦明示しておく。
「捨てることを前提にした物をたくさん作るために、働かなければいけないのが、今の資本主義社会のありさまである」
余計なものを作るために、余計な労働を生み出す。穴を掘って埋めるような仕事ばかり。
これだけ余剰を生産しておいて、企業はバタバタと倒れていく。潜在ニーズ。更なる利益追求。もう明日がみえない。
我々はそろそろ、最も重要な仕事に取り掛かるべき段階まで来ているのではないだろうか。
社会が成熟したのなら、次に成熟するのは我々個人である。
つまり、一人一人の幸福についてよくよく考えなければいけないのではないだろうか?
資本主義社会は人間を置き去りにして、一体どこに向かおうというのだろうか。
現段階において「労働者」の役割は「労働」ではなく、「適量な労働」ではないだろうか。
仕事仕事と毎日忙しそうにしているが、一体それは何をしているのだろうか?その仕事によって何の役に立っているのだろうか?
まさか、捨てるために作っているのではないだろうから、しっかりとした考えあってのことであると思う。
しかし、ではなぜ、世の中にはこんなにもいらない物がたくさんあるのだろうか?
世の中にはなぜ、こんなにもやる必要のない仕事がたくさんあるのだろうか?
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続きはまた今度文字に起こすので、続きが読みたい人は、フォローして待っていてほしい。
次回は、労働者のこれからの振る舞いと、眠っている第四勢力の話をしたいと思う。
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