ショートストーリー 花屋のユリ
ずいぶん前のことだ。
その娘はいつも、花屋に一人でいた。
売り子は、彼女以外には見たことがなかった。
市民病院から歩いて、5分ほどの場所にある小さな花屋。
店の名前はモデスティ。
寺沢一郎は、母が市民病院に入院してからの一ヶ月、土曜の日は、母に会いに行くことが習慣になっていた。
そのとき、道筋にあるモデスティによって、母のために花を買った。
花屋の娘は、目の輝きが愛くるしく、笑顔が魅力的だった。
彼女は一郎の母のために、花をアレンジしてくれた。
「今日の花は、春をイメージしました」と彼女は言った。
フリージアが芳しい。
「いつも、ありがとう」一郎は感謝をこめて言った。
花束をわたすときの彼女の手は、華奢で白く、優しい仕草が印象的だった。
一郎はきれいな手だと思った。
「君の名前は?」思わず一郎は訊いた。
彼女は、はにかみながら応えた。
「ユリです」
ユリ、一郎は心のうちで何度も繰り返した。彼女に似合う名前だ。
花束は春だったが、店の外では、ちらちらと雪が舞っていた。
「早く、春になってほしい」ユリは夢見るようにつぶやいた。
「そうだね」一郎は、重そうにバックを抱えた。
「お仕事なの?」
「今日は、たまたま仕事だった。その帰りに病院へ行こうと思って」
「どんなことをしているの?」
「弁護士をしているんだ」
「そんな大変なお仕事をしているのね」
「まあね‥‥‥忙しいよ」
「いろいろな人のためになる、大事なお仕事でしょ」
「そのつもりだけど‥‥‥」
一郎は今抱えている仕事を思って、上を向いた。
「難しそう」
「世の中は複雑だから、社会には様々な答えがあるんだ」
「お母さんをみながら、りっぱだわ」
一郎は照れくさそうに微笑んだ。
「僕は一人っ子だから」母は大切な人だ。
「春になったら、きっとお母さんは元気になると思う」
「そうならいいけれど」
「大丈夫」ユリは明るく笑った。
「君が言うと、そんな気がするよ」何故だろう。ユリの軽やかな笑い顔のせいだろうか。まるで魔法にかかったみたいだ。
「そうでしょ。だから信じて」
一郎は思った。春になって、母が元気になり退院することができたら、ユリを誘ってみよう。時間を気にせず、彼女と二人だけになりたい。
やがて桜がほころび始めた。春が来ている。
一郎の母は退院することができた。
その週の土曜日、一郎は色とりどりのマカロンを買った。
今日こそ、ユリを誘ってみよう。心が浮き立つ。
一郎は、モデスティのガラスの扉を開けると、いつもと雰囲気が違っていることに気がついた。
店のカウンターには、痩せて、面長な顔にショートカットの女性が一人いた。
店員は無理に笑って、いかにも不愛想な態度を見せないようにとしている。
「いらっしゃいませ」
一郎は一瞬声が出なかった。
「あの‥‥‥ ユリさんは?」
店員は、ああこの人かという顔をした。
「寺沢さんですか?」
「寺沢です。ここの店員のユリさんは、今日はいないのでしょうか?」
一郎は思わぬ事態に動揺していた。
「ユリさんは店を辞めました」店員は平然と答えた。
「辞めた。なぜ?」一郎は叫んだ。
店員は目をくるりとさせて、微笑んだ。
「結婚するんですって。なんでも親に反対されて、のびのびになっていたけれど、春になって雪解けになったと言っていました」
一郎は胸がつまった。ユリにはフィアンセがいたのか。
「それで、これを渡してほしいって。きのう、ユリさんが作ったブーケです」
スミレの花とかすみ草の花束だ。
「知らなかった‥‥‥」先週の土曜日には、何も言っていなかったのに‥‥‥
ユリは、別れの言葉も言わず去って行った。
一郎は肩を落として店を出た。
本当だろうか。結婚するって。あの眼差しは、まるで現実のもののようではなかった。
ひょっとして、ユリは魔女だったのではないだろうか。だから、人間のあなたとは付き合えないって、去って行ったのではないだろうか。
ユリはどこか謎めいていて、不思議な感覚がそう思わせる。
スミレの花が風に揺れている。
遠く離れた街で、ごめんなさいってユリが言っているような、一郎は気がした。
あれから長い時間が過ぎた。
春になると、一郎はスミレの花を花屋に買いに行く。
一郎の手から風のようにすり抜けた恋心、あのユリを思い出すために。
了
作品掲載 「小説家になろう」
華やかなる追跡者
風の誘惑
冬の訪問者 他
「エブリスタ」
相続人
ガラスの靴をさがして ビルの片隅で