自分の内側にいる神様とは?
突然ですが、、
私には、幾何学というものが気になるけど、ずっと遠い存在でした。
占星術を学ぶにつれて、じわじわと入り込んできてはいるのですが、幾何学といえばやはりイスラムの持っている感覚ほど研ぎ澄まされたものはないかと思います。
近所にジャーミィというイスラム教のモスクがあるので、散歩がてらよく訪れるのですが、偶像崇拝を禁止した理由はその場を体験すると感じられるのではないでしょうか?
神は私たちの中にいる、外側には存在しない、という意思表明ともいいましょうか。
確かにキリストが現れたことにより、内側と外側がわけられた、隔てられた、視覚化したといっても過言ではないのでしょうか。
しかしながら、キリストの本来示しているものとは、隔てられた後、人間存在、それぞれに世界を創造することを促しているのかもしれないな、と思うのです。
キリスト衝動とはそういうことなのかな、と。
キリストが人の子になった、ということは、我々にもキリストが降りて来れるように道が開かれた、とも言える。
ただ、人になったということは物質になった、地に堕ちたともいえる。そこから、人は目が見えるようになりすぎた、目で見えるものが全てとなっていくことになったということでしょうか。
聖書の物語とは、決して信仰を束縛することでもなんでもなく、罪も罰もなく、
宇宙の創造の過程を暗に示しているだけのように思うのです。そこには宇宙の叡智がエレメントや幾何学が隠されている。
そして、閉じ込められたこのマトリックスの世界では、片方だけ、見える部分だけで物事が語られ、さらに見える範囲での物事が分化していく一方で、それは一体何処へむかうのか。結局はずっと片手落ちということなのでしょう。
プラトンの時代はまだくっついていた。
そこには幾何学が存在し、そこからさらに細分化していく。
数学、天文学、哲学、、、
元はひとつを知るための細分化であったのに、いまではお互いに素知らぬ顔をしているのです。
その状態は、人間の状態と同じとも言えますね。
大雑把にいうと、くっついていたものを細かくしたのだから、隣人を愛せよという。
決して、現代の持つ宗教のような、権力や権威は必要なくて、私たちの認識の問題ではなかろうか?と。
教会は、導き手ではあるかもしれないが、崇拝対象物ではない。と。個人の中の宇宙の中にのみ存在するということに突出しているのが、先に述べたイスラムの最たるものというわけです。
宗教も科学も今では、権力者の手に、さらに深く欲望の地に堕ちた。
科学は、結局のところ新しいものを発見はしていない。在るものが証明されただけのことである。
何を信じていようとも、わからないけど何故か腑に落ちる、という純粋な思考の中に、私たちの活路は見出されるべきではなかろうか、と思う。
私には難しいことはわからないのだけど、個人のもつ高い道徳性と直観がこれからの道標となるのではないかな、と。
自分を信じるということは、きっとこのようなことも包括されている言葉なのでしょう。
世界はこれからもっと分かれていくでしょうが、
さて、貴方はどの世界で生きたいですか?
自分を信じる世界か、そうでない世界か。
どうか自分の心によくきいてみてください。
これからは、貴方が愛した(信じる)世界に生きることになるのです。
愛のある世界か、ない世界か。