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時系列倒置の研究 8・「地下室の手記」【ドストエフスキー】
解説はこちら
構成はこうなっていまして、
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より簡略に図式化するとこうなります。
![](https://assets.st-note.com/img/1693106967833-ewGtWmq0e4.png)
第一部も第二部も内部に反復構造を内包している、「反復構造の二重」になっています。かなり奇抜です。物語としての効果というより、自分の言いたいこと、ここではキリスト教におけるキリストの喪失の問題を際立たせるために採用された構成です。実際わかりにくく効果が上がっているとは言い難い。ある問題をロジカルに考えて、その上で小説化する。その場合ロジカルさを優先すると小説としての効果が薄れ、小説としての完成度を上げるとロジカルな説得力は薄れる。本作はどっちつかずで、ほぼ共倒れです。主人公の「キリスト教」さんはドストエフスキーらしくいつも通りキャラが十分立っていますが、対抗するキャラのラインナップが貧弱なので、キャラが立っているというよりキャラが孤立している状況です。
第二部は第一部の15年前という設定です。
全編のクライマックスは第二部後半、リーザとの時間です。全体の3/4はこの箇所を際立たせるために書かれたものです。第一部全体も、第二部前半も、第二部後半を際立たせるために書かれた。
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つまり時系列倒置が本作最大の技法、というわけではないのです。反復構成と時系列倒置の二本柱で組み立てられ、両者は同等です。
第二部後半を冒頭に置いた方が分かりやすい物語になったのでは?とも思います。実際には作者は第一部から順に書いていったそうです。書く前から第二部のだいたいの構想は持っていたはずです。でもいちいち第一部に対応する書き方をしなければならないから、えらく手間がかかる。反復構成で精度を高めだすときりがない部分があります。よって第二部の完成には手間取った。
今まで見た反復構成の作品で最もマニアックだったのは太宰治の斜陽でして、
![](https://assets.st-note.com/img/1693107274943-dLEsl9cYhs.png)
の上に
![](https://assets.st-note.com/img/1693107355925-pQp52crSfP.jpg)
となる手間のかかったものなのですが、「地下室の手記」も反復構成の二重、反復構成の入れ子という意味では、非常に難易度の高い作品だと思います。
これ以上手間がかかっていると思われるのは、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の原案、と私が推定するものがそうでして、
![](https://assets.st-note.com/img/1693107450863-3dUCzaLkxE.png)
対称構成と反復構成のドッキングです。しかし「ワンス」では監督は原案を放棄して時系列倒置作品に仕立て上げました。そして、それは成功しているとは言い難い。非常にわかりにくい作品になっています。だから「地下室」でも、第二部後半を冒頭に置いたところで、やはりわかりにくかったのかもしれないなとも思います。
今、普通の映画監督が本作を映画化するならば、
![](https://assets.st-note.com/img/1693107683826-GzOqJHEgjV.png)
こんな感じで主人公の独白と、15年前の事件を交互に見せるかたちにすると思いますが、よほど主人公独白と事件の、つまり緑とオレンジのリンクというか対の映像表現をうまくかつ大量に思いつかないと、いい作品にはならないでしょうね。
「こころ」と「地下室の手記」
「地下室の手記」と最も構成が似ていると思われるのは、夏目漱石の「こころ」です。作品としての出来は、普通の人が素直に読めば「こころ」のほうがはるかに上です。しかし非常に似ている。
こうなっています。
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「中・両親と私」の部分がはみ出していますが、「地下室の手記」も、
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第一部の第十一章がはみ出しています。
そして全体は両者とも時系列倒置になっています。似ていないのは「地下室」が前半後半それぞれ反復構成を内包していますが、「こころ」では内包していないことくらいです。
主題的にも、「こころ」は西郷の喪失、「地下室」はキリストの喪失ですから、似ています。
似ている、似ていない論はあまり生産性の高い議論にならないのですが、どうもこの作品の相似は気になります。
漱石は最後の作品「明暗」で、
「カラマーゾフの兄弟」のキャラクター配置を真似ています。となると「地下室」を読んで「こころ」の構成考えた可能性もあるのですが、「こころ」は「明暗」の2年前で、かつ「地下室」の日本語訳はまだ出版されていないはずですので、(英語翻訳で読んだ可能性も捨てきれませんが)おそらく読んでいない。読まずに非常に似通った作品を書いている。
となると、漱石とドストエフスキーは、元来作家としての気質が似通っている可能性もあると思います。漱石は猫と永日小品以外はだいたい読解しましたが、ドストエフスキーは後期作品のうちいくつかしか読解していません。よって現時点でははっきりとは言えませんが。
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例えば「道草」では言語と貨幣をパラレルで考えますが、
「罪と罰」でもパラレルで考えます。
「門」では今現在の充実を重要視しますが、
「悪霊」も刹那刹那を重要視します。
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漱石が「ロシア文学はたいしたことない」と言う時、それは自分に似ている、似ているのだからたいしたことない、というくらいの意味だったのではないか。キャラ配置、ダイナミックさ、壮大さははっきりドストエフスキーのほうが上、詩的風景描写は漱石の方が上です。「こころ」と「地下室」でははっきり「こころ」のほうが完成度は高いです(諸般の事情で後半ダレているのも事実ですが)。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」レベルの大作は漱石は書けていません。そこはスケール感はロシアが得意、完成度は日本が得意という常識的なラインです。時代も国も違う両者とも、ずば抜けて思考能力に恵まれており、文学、小説というものを本気で考え、出した回答はかなり相似したものになった。
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漱石はドストエフスキーの影響で発生した作家ではありません。作家生活の後半でドストエフスキーを知り、若干の影響を受けているだけです。漢詩や俳句が好きでしたから、資質的には寧ろ正反対です。でも作品には強い相似が認められる。面白いですね。やっとこさ中村元の比較思想みたいなものが、文学作品で出来そうです。まだ出来始めている段階ですけど。今はデーターが不足すぎますが、今後ゆっくりドストエフスキーをやりながら考察してゆきたいと思います。