「千と千尋の神隠し」解説【宮﨑駿】
宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」は、文明論を語るアニメです。全体の構造を見ればそれは明らかです。作品というものは、全体の構造を見なければいけないのです。
1、全体の構成
冒頭のワンシーンに、この作品の構造は明示されています。
鳥居
小さな祠たち
そして上の部分が切れた大きな木。
三つのアイテムがまとめて示されます。このシーン、なにか意味があると思った方多いと思います。物語、とくに名作の冒頭に示される部分には、たいてい物語全体を暗示する情報が詰まっています。ここを発見することが物語鑑賞の最大のコツです。
さてところで、この作品は、ちょうど三日間分の出来事を描いています。
昼間引っ越しをしようとして道に迷い、赤い門をくぐります。その日の夜、千尋は湯婆婆と契約します。
翌日千尋は油屋の建物の中で働きます。
三日目千尋は昼ごろ建物を抜けて電車に乗り、銭婆のところにゆきます。
四日目の朝、油屋に戻って開放されますが、両親と車はまだそこにあります。一日目の昼から四日目の昼までですから、ちょうど丸三日分の時間がながれています。もうおわかりですね。
鳥居は赤い門です
祠は油屋です
そして上が切れた木が、電車の乗って移動した世界です。
だから釜爺は言ったのです。
「電車は昔は帰りがあったんだが、40年前から一方通行になって」と。
おそらく大木に40年前に雷が落ちたのです。だから樹木は、根から養分を吸い上げることは出来ても、光合成がほとんどできなくなって、電車も一方通行になったのです。そうあの電車は、大きな木の維管束なのです。
電車の中の荷物を運んでいる人は、大木の根から幹へ養分を運んでいる人なのです。素晴らしいイマジネーションですね。
トトロの木、あるいはラピュタを支える大きな木、そのような世界を象徴する大きな木を「世界樹」と言います。神話世界の定番アイテムです。この作品では、上が切れている、その中を電車で移動する、というところが新しい点です。神話世界では、世界樹がなくなると世界が滅亡するのですが、「千と千尋の神隠し」では「上が切れているけど、まだ世界はなくならないよ、まだやり直しが出来るよ」という意味を含んでいます。
2、音読み訓読み、周辺と中心
湯(訓読み)婆婆(音読み)
銭(訓読み)婆(音読み)
釜(訓読み)爺(音読み)
饒速日(訓読み)琥珀(音読み)主命
全て訓読み+音読みの組み合わせになっています。ですから荻野千尋(訓読み)が千(音読み)になるのです。
訓読みとはつまり、中国世界の中心ではなく、周辺(たとえば日本)での、漢字の読み方です。中国世界の中心では、もちろん音読みします。これは周辺民族が文明の中心部分に行った時の物語なのです。
ちなみに周辺の部族のことを、
東夷
南蛮
西戎
北狄
と呼んでいました。
西戎は別名犬戎と云います。油屋の世界は、東夷、南蛮が西戎、北狄と交わる、まさに中華の土地なのです。だからインテリアも中華風ですね。
千尋の名字は荻野ですが、荻の草冠を取ると狄になります。契約の時、何故か漢字が犬になっていますが、これは西戎(=犬戎)でもあり、北狄でもある、という意味だと思われます。ちなみに西戎北狄は騎馬民族です。そして千尋の父は「この車は四駆だぞ」と自慢してぶっ飛ばします。
一方オクサレ=名の有る川の神様や、ハクは龍になります。龍は東夷や南蛮の神です。
ちなみに大きな門の近くに立っている石人は中央アジア遊牧民の立てた石人によく似ています。遊牧民ですから、北狄、西戎です。つまり千尋の種族です。この映画が大きな文明論の内容を持つことを表しています。
3、契約と貨幣と労働
異世界で千尋は、三つの問題に直面します。
湯婆婆との契約、川の神様やカオナシの出す貨幣、そして労働です。
その中で契約が最重要問題です。
ハクも千尋も契約に苦労するのですが、最終的に千尋の労働の成果である苦団子が解決してくれます。
ハクが吐き出したもののうち、虫は湯婆婆がハクの体内に忍ばせたものです。ハンコは銭婆のところから盗んできたものです。ハンコには目に見えない呪いが込められていて、盗んだものが死ぬようになっています。
湯婆婆がハクのお腹に忍び込ませた虫は、千尋に踏まれて死んでしまいます。
そして銭婆にハンコを返すと、呪いが消えていると言われます。
時系列でまとめます。
1)湯婆婆、ハクにあやつり虫注入
2)ハク、あやつられて銭婆のハンコ入手
3)ハク、ハンコの死の呪いに苦しむ
4)千尋、苦団子をハクに投入
5)ハンコの死の呪い、あやつり虫に移動
6)あやつり虫、千尋に踏まれて死亡
7)ハク、ハンコの呪いからも、あやつり虫からも開放される
という流れです。
宮崎駿の主張は、勤労こそ全てを解決する。(カオナシのような)貨幣の乱発は良くない。というものです。しかし勤労ばっかりして消費をしないから20年のデフレなわけで、日本は勤労が不足しているのではなく、消費が不足しているのです。宮崎の単純素朴な経済観ではどうにもなりません。
ここでハク=饒速日琥珀主命(にぎはやひこはくぬし)という名前について考えて見ましょう。彼は川の神であると同時に、貨幣の神でもあります。なぜならば琥珀が名前に入っているからです。
琥珀をギリシャ語で、エレクトロンと言います。電気という意味で使われる言葉ですが、これは琥珀が静電気を発生させるからです。ところで、人類初の硬貨は、今のトルコで紀元前670年ごろに発行された、エレクトロン貨幣です。エレクトロン貨幣とは、金銀の合金でできた貨幣で、おそらく若干色がまだらになったのでしょう、琥珀と同じ名称で呼ばれました。
千尋を好きになる二人の男性、カオナシとハクの対比で考えるなら宮崎の思考では、
1、貨幣は本来金属でなければならない
2、土から金をひねり出すような貨幣増刷はよくない
となります。
カオナシ=偽者
ハク=本物であるようです。
これでは永遠にデフレから脱出できません。
はっきりと言えば、国民的作家のこの貨幣観が、日本経済の長期停滞を決定づけました。デフレの継続にもっとも責任がある作品は、この作品です(でも、宮崎が日本史上最大級の偉大な作家であることに変わりはありません)。次にこの文明論の元ネタをご紹介します。
4、ワーグナー「ニーベルングの指輪」
ワーグナーはオペラの作曲家です。「ニーベルングの指輪」はその最大の作品で、4日にわけて上演されます。トータルで14時間以上かかる作品です。
ニーベルングの指輪の主題は、
契約と、
貨幣と、
愛です。
千と千尋の神隠しの主題は、
契約と、
貨幣と、
労働です。
千尋は労働によって愛を叶えるのですから、
非常に良くにていますね。
ニーベルングの指輪では巨大な世界樹が出てきます。「千と千尋の神隠し」の大きな杉の木に対応しています。
ニーベルングの指輪では、ライン川が大きな役割を占めます。この映画では、そもそもハクは川の神様ですね。宮崎駿はワーグナーのこの大作を参照して、千と千尋の神隠しを作ったのです。
ちなみに「ニーベルングの指環」は、
序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold)
第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre)
第2日 『ジークフリート』(Siegfried)
第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung)
の1+3という構成になっています。
「千と千尋の神隠し」も、冒頭の鳥居と祠と大木のシーン+3日間という構成でしたね。
そういえば作中最高のキャラである「カオナシ」さんも
ニーベルングの指輪の「神々の黄昏」に登場する、運命の女神「ノルン」にそっくりです。(1991-1992年、バイロイト音楽祭での写真です)
人々を大量に飲み込んで肥大化するカオナシさんですが、飲み込んで肥大化という意味では、コンラッド「闇の奥」登場人物のクルツが原形です。クルツもそれまでに登場する人物のキャラすべての複合です。そして「闇の奥」ははっきり「ニーベルングの指環」を下敷きにした作品です。
そういえば「崖の下のポニョ」でも、ポニョの本名は「ブリュンヒルデ」という設定でした。ブリュンヒルデというのは、ニーベルングの指環のヒロインの名前なのです。宮崎駿はワーグナーが好きなのですね。
「千と千尋の神隠し」はベルリン国際映画祭で金熊賞を取っています。カンヌでもなく、ベネチュアでもなく、ベルリンに出したというのはジブリの上手な戦略ですね。ドイツの作品「ニーベルングの指環」を踏まえたのですから、当然有利ですね。そして見事にドイツの審査員に受けました。