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漱石徒然草・5

前回はこちら。

研究者たちはポイントとなる言葉の多義性につまずいて、全体の意味を見失うのがだいたいの失敗パターンである、というところまで説明した。

そうは言っても「彼岸過迄」は歴然たる失敗作であり、読めてないからダメという気はさすがにない。読もうとしただけでも超勤勉である。私は一度しか読まずにすぐ表をタイプしていった。この作品の場合、多分2回読むより表を1回打ち込むほうが楽である。打ち込みもしないで読解してゆく人をひそかに尊敬している。結果は悪いが、能力は凄い。

「それから」でも

にはすぐれた読解が紹介されている。斉藤秀雄「真珠の指環」の役割と意味、である。
斉藤は「それから」の指環に注目する。真珠の指環は三千代が代助からもらったものである。ある時は指にはまり、ある時は質屋に入る。指環の履歴から導き出されるのは、本作が代助の恋愛物語ではなく、三千代の恋愛物語である、という結論らしい。私は当該論文読んでいないからこれ以上は説明できないが、実際に「それから」を読むと、指輪が気になる書き方を作者がしている。

私見では「それから」は「ニーベルングの指環作品群」に含まれる。

そう考えないと、冒頭の足音、下駄、心臓などか説明できないのである。もしもこの仮説が当てはまるならば、「それから」は下敷きを知らないと読解できない半端な作品ということになる。

夏目漱石は、近代日本文学最大のスターである。漱石作品は(大多数は人気がなく、あまり読まれていないのだが)部分的には多くの国民がどこかで読んでいる。だから悪く言うのは気が引ける。批判するだけで「自分を漱石より上と思っているのか、偉そうに」という反発を食らう。
しかし一旦読もうとした限りは、神仏相手でも失敗は失敗と言わなければならない。仏典だろうが聖書だろうが批判しなければならない。批判ができないのならば読解しないほうがよい。

「それから」はつまり、成功作ではないのである。ラストシーンはたしかに超一流。「ニーベルングの指環」の階級闘争問題を理解できているのは凄い。しかし「指環」の通貨発行権という意味は理解できていなかった。だから正面から読めば、指環は斉藤秀雄の論文のごとく、三千代の恋愛物語であるという結論を導き出すためのアイテム、と矮小化された結論になる。

しかしそれでも(全文を読んでいないのだが)斉藤論文を評価したい。斉藤は物語の本筋が三千代の恋愛だとする。結局彼女は自分の指環をもって長井家から金を調達し、平岡と縁切りし、平岡と代助を争わせて長井一族を没落せしめるのである。まさに指環の持つ死の呪いである。もちろん三千代も長く生きられそうもない。

通貨発行権をろくに理解せずに、「ニーベルングの指環」をここまで読めるのだから、漱石の文学力は世界的に見ても超一流である。そして知識が不足しているにもかかわらず、本家よりも表現力では上である。

この路線の究極形態としては、手塚の「百物語」がある。

ゲーテの「ファウスト」を下敷きに、全く違う、しかしながらド迫力の物語に仕上げている。強烈なご都合主義、本地垂迹的伝統の炸裂である。漱石も「坊っちゃん」「三四郎」ははっきりファウストが下敷きになっている。しかし「三四郎」はファウスト以上の密度ではあるが、ファウストほどの迫力はない。手塚の迫力ははっきりゲーテより上である。

というふうに、神格化せずにきっちり読めば、漱石を外国の文豪や漫画家と比較することができる。そうなって初めて、漱石を消化できたことになると思う。無論、ゲーテや手塚の消化が十分だと言う気はないが。

次回に続く。





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